2008年11月

今回の土佐の偉人は、小野梓(おのあずさ)さん。

会計検査院を設立した人です。
また、大隈重信の片腕として、早稲田大学・立憲改進党を、実質的に設立した人です。

本田宗一郎に藤沢武夫がいたからこそ今のホンダがあるように、大隈重信に小野梓がいたからこそ早稲田大学や立憲改進党は生まれたのです。
さて、そんな小野さんとはどんな方だったんでしょうか。





小野梓は1852年に、宿毛に生まれました。
1868年に戊辰戦争に従軍。その後に東京へ遊学し、1871年から3年ほど米・英留学します。
帰国後すぐに、欧米で学んだ経験を生かして啓蒙団体「共存同衆」を結成し、その中核として活躍します。そのかたわら、1876年に司法省官吏となり、民法などの法制の調査・研究をすすめ、また1880年には会計検査院を設立し、会計運営の適正化に尽くしました。この翌年、大きな転機を迎えます・・・。
1881年、明治十四年の政変が勃発し、大隈重信が下野しました。財務卿だった大隈は、法律・経済に明るく、人を引き付ける魅力をもった小野に目をつけ参謀として勧誘し、自身の様々な構想を実現させるよう小野に言いました。 さて、どんな依頼があったのでしょう?



その一つとして、早稲田大学の創設があります。
大隈重信は、昔から学校創りたいと思ってたんだけど、明治十四年の政変以降、政府から危険視されており、自由に活動出来なかったそうなんです。そこで代わりに小野さんに「学校建てたいんでヨロシク」と言い、小野さんは学校設立に着手しました。すると「小野さん。ワシらも手伝うよ」と言ってくれる人達が現れたのです。後に早稲田4偉人と呼ばれるようになる、高田早苗・天野為之・市島謙吉・山田一郎です。
元々この4人は、小野さんが司法省時代に論じていた日本の近代国家体制の在り方に共鳴し、小野さんのもとに集まった人達で、鴎渡会なるものを結成して、小野さんを中心に様々な議論をしてたんです。
そこへ大隈さんからの「学校設立したいんだけどさぁ~」という依頼です。小野は4人に「大隈さんが学校つくりたいらしいき、やっちゃろうや」と言うと、4人は「ガッテン承知の介よう」となって、この会のメンバーを中心にして早稲田大学の設立を進めるようになりました。校舎の建築から講師の招聘にいたるまでの仕事を行い、創立後は歴代の校長として学校運営にあたりました。ちなみに小野さんは財政論・憲法論の講義まで引きうけて活動したそうです。
こんな感じで小野さんは、大隈のただの夢だった学校設立を現実のものにしていきました。それは多大な不安も伴っていまいた。何故なら、「政変で下野した大隈さんの学校だから、不穏分子を養成する学校ではないのか?」と政府から疑われており、密偵の監視も受けていたからです
そんな不安にも屈せず、大隈さんの漠然とした夢を現実化させられたのは、小野さんの類い稀なる構想力と実行力、それに優秀な人材を引き付ける魅力があったからこそなんでしょうね。スバらしい



さて、大隈さんからの依頼は学校創設の他にも、立憲改進党の設立がありました。
鴎渡会のメンバーが様々な論議をしていた事は先記しましたが、実はその議論の中から、立憲改進党の具体的な構想が組み立てられ、政策綱領から組織づくりに至るまでを、ここでも担うようになりました。そのなかでも小野さんは、立憲改進党の結党後に、筆頭掌事(今でいう幹事長)となり、党の事務を担当しながら各地を遊説して、党勢拡大の中心的担い手となりました。



以上のように、大隈重信の漠然とした構想を、いずれも見事に実現させた小野さんは、1886年に33歳の若さで亡くなりました。
その死を知ったとき大隈さんは『わが輩は両腕を取られたよりも悲しく思った』といって嘆き、小野さんを次のように評しています。小野は『学問の造詣が深く、経綸の才略あり、いろいろの方面にわが輩の参謀となり秘書となって補佐してくれた。もし何事かなす場合には、わが輩一策を立てれば、ただちにこれに骨をつぎ足し肉をつけ、ちゃんと形を整えてくれ、その案は往々わが輩の考えうる以上のものがあった』と。
大隈重信にここまで言わせることからも、小野さんの偉大さがわかりますね。33歳かあ。もったいない。



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はい

新コーナー「土佐の偉人」、記念すべき第一回目に紹介するのは、「男爵イモ」の名前の起源となった人「川田龍吉」 (かわだ りょうきち)さんです。

龍吉さんは、北海道農業を近代化させた人で、今、日本全国で男爵イモが生産されてるのは、この龍吉さんのおかげなんです。
さて、そんな龍吉さんって、どんな人なんでしょうか?



龍吉さんは、1856年に土佐郡杓田村(現・高知市旭元町)に生まれたそうな。
川田家は郷士だったけど、村の「年寄」を勤める裕福な家だったので、父ちゃんが三菱商会に参画することになり、一家は大阪に移ったそうな。龍吉さん15歳のときだったそうな。で、大阪に移った龍吉さんは、大阪にあった岩崎邸で開かれる英語学校に通うことになった。
6年後、英語学校での縁があってかどうかは知らないけど、岩崎弥太郎からイギリス留学を命ぜられ、7年間留学する
留学を終えると、三菱製鉄所や日本郵船など岩崎家創業の企業で勤め、後に横浜船渠の社長に就任し、男爵にもなる。このころ、日露戦争が勃発し、戦後恐慌が発生した。
戦後恐慌まっただ中の1906年、龍吉さんは、財界の大物・渋沢栄一の頼みにより、経営不振になっていた函館船渠会社を立て直すため北海道へ渡り、見事存続させる。
1951年、老衰により渡島当別の自宅にて95年の生涯を閉じる。



あれ
経歴を見た限りでは、ジャガイモと全く関係無いみたいだけど
なんで、男爵イモと関係があるんじゃ



どうやら、龍吉さんとジャガイモの関係は、イギリス留学に起源があるらしい。
なんでも、「偉大な工業国は、偉大な農業国でもある」という信条があったようで、機械工学を学校で学んでいた龍吉さんは、暇があるたび農村を訪れ、学校で学んでいない農業に関する見聞を広めていたようだ。そんななか、ジャガイモに出会ったらしい。

で、北海道で働くときに、農場「清香園」を開いて、仕事のかたわら農業を始める。
1908年、数品種のジャガイモの種を輸入した龍吉さんは、成田さんという人に種を分けて育てさせました。すると、その実は早熟で、病害虫に強いものでした。実のなりがとてもよいため、当初は「五升いも」や「石垣いも」などと呼ばれていましたが、「川田男爵が生み出したものだから・・・」ということで、「男爵イモ」と正式に命名されたそうです。

この「男爵イモ」という名前の起源については、伊達男爵説、永山男爵説、道南に入植した徳川家の子孫説などがあるけど、それらは子孫によって否定されており、北海道農事試験場の吉野至徳・宮沢春水さんの研究によって、龍吉さん起源説が正しいことが明らかになってるらしい。



ちなみに、今年(2008年)は男爵イモが誕生してから100年を迎えます。
同郷の偉人である「川田龍吉」を思いながら、ジャガイモ料理でも楽しんでみませんか?



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【おまけ�@】
龍吉さんは、日本最初のオーナードライバーであるといわれている。
1901年、アメリカから輸入したロコモービル社製の蒸気自動車を購入し、自ら通勤などの際に運転していた。当時の日本には、個人で自動車を購入し運転していた人がいなかった事から、龍吉さんは日本最初のオーナードライバーであるといわれている。
この蒸気自動車はその後北海道にも持ち込んで使用しており、没後は手つかずのままとなっていたが、1970年代後半に復元修理が行われ、現在は北海道にある男爵資料館で保存展示されている。国内に現存する最古の自動車とされている。

【おまけ�A】
横浜船渠に勤務していた龍吉さんは、日本初の民間による石造りドックを2つ建設しています。
有名な「氷川丸」はここで建造されました。
今、龍吉さんが手掛けた2号ドックは、横浜ランドマークタワーの足元にあるイベント広場「ドックヤードガーデン」として生まれ変わっています。


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県立図書館のすみに、こんな石垣 ↓ があった。

もしかして これって、高知城の一部だったのかな?
階段っぽい箇所 ↓ も見えるし、櫓でも建ってたのか?



調べてみた。



どうも昔は ここらへん一帯、神社だったらしい。
とういうことは、さっきの石垣には社が建ってたのかな?
昔の人はどんな事をお願いしてたんだろ
誰にも気付かれず、ひっそりと佇んでいる遺構を見て、見たことない時代に思いをよせるのもイイもんですね。



しっかし、この図書館には何度も行ったことあるんだけど、あんな石垣があるなんて ぜんぜん気が付かなかったよ。
というか、実は何度も見てるのに、興味無かったから記憶に残らなかっただけかもしんないけどね。

探せば まだまだ 隠れた遺構があるかも。
探してみよう。

たんけん~ はっけん~ ボクの町~


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その名も「土佐の偉人」。
内容は マイナーだけど、実はスゴイ功績をたててる土佐の偉人を紹介して、高知は竜馬だけじゃないがでっ!つうのを全国にアピールし、高知を盛り上げようじゃあないかっ!」ってやつです。


え?
「なんで そんなんやるが?」だって?
それはね、県外に出て高知のことを聞くと、大概の人がこう ↓ 言うから。
「高知? 竜馬しかウリがないとこでしょ?」
にゃ!にゃにおう~!
ウリなら竜馬以外にもいっぱいおるわっ!
と、思ったんだけど、よくよく県外人に話を聞いてみると「竜馬=高知出身」みたいに、人物を思い浮かべたときに出身地(高知)を連想できる有名人が、竜馬くらいしかいないみたい。


いや、「中岡晋太郎や岩崎弥太郎がおるろうが」と言う人、ちょっと待って
それは土佐人にとっては常識やけど、意外と県外人は知らんで
県外人でも幕末好きな人なら、中岡晋太郎や武市瑞山の名前も出身地も知っちゅうがやけど多くの県外人は土佐の有名人を竜馬くらいしか知らんし、名前は知っちょっても土佐出身とは知らんとか、土佐人が偉大な功績を起ててるのにその事を知らんとか、結構ある。


こんなに土佐の偉人が全国的に知られてないのは、ある意味、土佐人の責任やと思う
竜馬もそうやったけど、「積極的には表舞台に出ず・出しゃばらず、裏方に徹して、功績は人に譲る。」のが、土佐人の特徴であり、他県に誇れる美徳だよね。だから、高知のスゴサを声高にアピールしたいのに、しない。
けど、それが偉大な功績を残してるにもかかわらず、無名な土佐人が多い原因になっちゅうがよ。
やから、偉大な功績を残した土佐人がおるに それをなーんも言わんから 誰もそのことを知らんかったり、「この人は土佐人(または土佐人の功績)やとみんな知っちゅうろう」と思い込んでるけど んなこと他県の人は全く知らんとかゆうのが、いっぱいあるがよえ。
それって、よさこいは北海道が発祥やと思われてたり、野菜栽培で宮崎に技術とシェアを奪われたり、明治維新では薩長ほどの発言力を得られなかったり、高知のウリは竜馬以外に無いって言われる原因にもなっちゅうがやないろーか。


ちゅうわけで、土佐の高知のスゴサをアピールします。
その1手段として、あまり知られてないけどスゴイ功績を残してる土佐の偉人を紹介します。
これによって、明治時代には無名だった竜馬が小説をきっかけにして全国的な有名人になったように、あまり知られていない土佐の偉人が全国区の有名人になれば良いなって思ってます。




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11年前に乗ってた、GTのLTS。

Fサスはショーワのグラビエ、Rサスはホワイトブロス(だったかな?)
Fホイールは剛性が上がるとウワサがあったマゲマゲホイール(スポークがねじれてるでしょ?)
クランクはカランバで、BB取り付け穴の横から ペダル穴方向に向って穴があいてる。夏にキャンプに行くと、この穴にロケット花火入れて打ち上げたりしてた

1年くらい乗って、フレーム売っちゃったけど、もったいない事したな。
ダウンヒルするにはホイールベース短くて安定しないし、リアの動きが気に入らなかったから売ったんだけど、街乗りで遊ぶには最高だったんだよなぁ。
今、めっちゃ こいつを乗りたい


今一度 入手できるんなら、も一回買うんだけど。
けど、楽天で探しても無いし。。。
出品されるのを気長に待つしかないか・・・。



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