今回の
土佐の偉人
は、小野梓(おのあずさ)さん。
会計検査院を設立した人です。
また、大隈重信の片腕
として、早稲田大学
・立憲改進党
を、実質的に設立した人です。
本田宗一郎に藤沢武夫がいたからこそ今のホンダがあるように、大隈重信に小野梓がいたからこそ早稲田大学や立憲改進党は生まれたのです。
さて、そんな小野さんとはどんな方だったんでしょうか。
小野梓は1852年に、宿毛に生まれました。
1868年に戊辰戦争に従軍。その後に東京へ遊学し、1871年から3年ほど米・英留学
します。
帰国後すぐに、欧米で学んだ経験を生かして啓蒙団体「共存同衆」を結成し、その中核として活躍します。そのかたわら、1876年に司法省官吏となり、民法などの法制の調査・研究をすすめ、また1880年には会計検査院を設立し、会計運営の適正化に尽くしました。この翌年、大きな転機を迎えます・・・。
1881年、明治十四年の政変が勃発し、大隈重信が下野しました。財務卿だった大隈は、法律・経済に明るく、人を引き付ける魅力をもった小野に目をつけ参謀として勧誘し、自身の様々な構想を実現させるよう小野に言いました。 さて、どんな依頼があったのでしょう?
その一つとして、早稲田大学
の創設があります。
大隈重信は、昔から学校創りたいと思ってたんだけど、明治十四年の政変以降、政府から危険視されており、自由に活動出来なかったそうなんです。そこで代わりに小野さんに「学校建てたいんでヨロシク」と言い、小野さんは学校設立に着手しました。すると「小野さん。ワシらも手伝うよ」と言ってくれる人達が現れたのです。後に早稲田4偉人と呼ばれるようになる、高田早苗・天野為之・市島謙吉・山田一郎です。
元々この4人は、小野さんが司法省時代に論じていた日本の近代国家体制の在り方に共鳴し、小野さんのもとに集まった人達で、鴎渡会なるものを結成して、小野さんを中心に様々な議論をしてたんです。
そこへ大隈さんからの「学校設立したいんだけどさぁ~」という依頼です。小野は4人に「大隈さんが学校つくりたいらしいき、やっちゃろうや
」と言うと、4人は「ガッテン承知の介よう
」となって、この会のメンバーを中心にして早稲田大学の設立を進めるようになりました。校舎の建築から講師の招聘にいたるまでの仕事を行い、創立後は歴代の校長として学校運営にあたりました。ちなみに小野さんは財政論・憲法論の講義まで引きうけて活動したそうです。
こんな感じで小野さんは、大隈のただの夢だった学校設立を現実のものにしていきました。それは多大な不安も伴っていまいた。何故なら、「政変で下野した大隈さんの学校だから、不穏分子を養成する学校ではないのか?」と政府から疑われており、密偵の監視も受けていたからです
そんな不安にも屈せず、大隈さんの漠然とした夢を現実化させられたのは、小野さんの類い稀なる構想力と実行力、それに優秀な人材を引き付ける魅力があったからこそなんでしょうね。スバらしい
さて、大隈さんからの依頼は学校創設の他にも、立憲改進党の設立がありました。
鴎渡会のメンバーが様々な論議をしていた事は先記しましたが、実はその議論の中から、立憲改進党の具体的な構想が組み立てられ、政策綱領から組織づくりに至るまでを、ここでも担うようになりました。そのなかでも小野さんは、立憲改進党の結党後に、筆頭掌事(今でいう幹事長)となり、党の事務を担当しながら各地を遊説して、党勢拡大の中心的担い手となりました。
以上のように、大隈重信の漠然とした構想を、いずれも見事に実現させた小野さんは、1886年に33歳の若さで亡くなりました。
その死を知ったとき大隈さんは『わが輩は両腕を取られたよりも悲しく思った』といって嘆き、小野さんを次のように評しています。小野は『学問の造詣が深く、経綸の才略あり、いろいろの方面にわが輩の参謀となり秘書となって補佐してくれた。もし何事かなす場合には、わが輩一策を立てれば、ただちにこれに骨をつぎ足し肉をつけ、ちゃんと形を整えてくれ、その案は往々わが輩の考えうる以上のものがあった』と。
大隈重信にここまで言わせることからも、小野さんの偉大さがわかりますね。33歳かあ。もったいない。

土佐の偉人
は、小野梓(おのあずさ)さん。会計検査院を設立した人です。
また、大隈重信の片腕
として、早稲田大学
・立憲改進党
を、実質的に設立した人です。本田宗一郎に藤沢武夫がいたからこそ今のホンダがあるように、大隈重信に小野梓がいたからこそ早稲田大学や立憲改進党は生まれたのです。
さて、そんな小野さんとはどんな方だったんでしょうか。
小野梓は1852年に、宿毛に生まれました。
1868年に戊辰戦争に従軍。その後に東京へ遊学し、1871年から3年ほど米・英留学
します。帰国後すぐに、欧米で学んだ経験を生かして啓蒙団体「共存同衆」を結成し、その中核として活躍します。そのかたわら、1876年に司法省官吏となり、民法などの法制の調査・研究をすすめ、また1880年には会計検査院を設立し、会計運営の適正化に尽くしました。この翌年、大きな転機を迎えます・・・。
1881年、明治十四年の政変が勃発し、大隈重信が下野しました。財務卿だった大隈は、法律・経済に明るく、人を引き付ける魅力をもった小野に目をつけ参謀として勧誘し、自身の様々な構想を実現させるよう小野に言いました。 さて、どんな依頼があったのでしょう?
その一つとして、早稲田大学
の創設があります。大隈重信は、昔から学校創りたいと思ってたんだけど、明治十四年の政変以降、政府から危険視されており、自由に活動出来なかったそうなんです。そこで代わりに小野さんに「学校建てたいんでヨロシク」と言い、小野さんは学校設立に着手しました。すると「小野さん。ワシらも手伝うよ」と言ってくれる人達が現れたのです。後に早稲田4偉人と呼ばれるようになる、高田早苗・天野為之・市島謙吉・山田一郎です。
元々この4人は、小野さんが司法省時代に論じていた日本の近代国家体制の在り方に共鳴し、小野さんのもとに集まった人達で、鴎渡会なるものを結成して、小野さんを中心に様々な議論をしてたんです。
そこへ大隈さんからの「学校設立したいんだけどさぁ~」という依頼です。小野は4人に「大隈さんが学校つくりたいらしいき、やっちゃろうや
」と言うと、4人は「ガッテン承知の介よう
」となって、この会のメンバーを中心にして早稲田大学の設立を進めるようになりました。校舎の建築から講師の招聘にいたるまでの仕事を行い、創立後は歴代の校長として学校運営にあたりました。ちなみに小野さんは財政論・憲法論の講義まで引きうけて活動したそうです。こんな感じで小野さんは、大隈のただの夢だった学校設立を現実のものにしていきました。それは多大な不安も伴っていまいた。何故なら、「政変で下野した大隈さんの学校だから、不穏分子を養成する学校ではないのか?」と政府から疑われており、密偵の監視も受けていたからです

そんな不安にも屈せず、大隈さんの漠然とした夢を現実化させられたのは、小野さんの類い稀なる構想力と実行力、それに優秀な人材を引き付ける魅力があったからこそなんでしょうね。スバらしい

さて、大隈さんからの依頼は学校創設の他にも、立憲改進党の設立がありました。
鴎渡会のメンバーが様々な論議をしていた事は先記しましたが、実はその議論の中から、立憲改進党の具体的な構想が組み立てられ、政策綱領から組織づくりに至るまでを、ここでも担うようになりました。そのなかでも小野さんは、立憲改進党の結党後に、筆頭掌事(今でいう幹事長)となり、党の事務を担当しながら各地を遊説して、党勢拡大の中心的担い手となりました。
以上のように、大隈重信の漠然とした構想を、いずれも見事に実現させた小野さんは、1886年に33歳の若さで亡くなりました。
その死を知ったとき大隈さんは『わが輩は両腕を取られたよりも悲しく思った』といって嘆き、小野さんを次のように評しています。小野は『学問の造詣が深く、経綸の才略あり、いろいろの方面にわが輩の参謀となり秘書となって補佐してくれた。もし何事かなす場合には、わが輩一策を立てれば、ただちにこれに骨をつぎ足し肉をつけ、ちゃんと形を整えてくれ、その案は往々わが輩の考えうる以上のものがあった』と。
大隈重信にここまで言わせることからも、小野さんの偉大さがわかりますね。33歳かあ。もったいない。

な家だったので、父ちゃんが三菱商会に参画
。
にもなる。このころ、日露戦争が勃発し、戦後恐慌が発生した。









