今回の
土佐の偉人
は、島村速雄(しまむら はやお)さん。
日露戦争で活躍した海軍の大将・元帥で、当時の海軍きっての頭脳派・戦略家と謳われた人です。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」で有名かもだけど、念のためにご紹介。
ところで、大将・元帥ってなんじゃろ?
調べてみると、軍隊のなかで最上位の階級が「大将」で、その大将の中でも優秀な人が例外的になれるのが「元帥」らしい。今で言えば、大将が会長で、元帥が名誉会長みたいなもの?
まあ
優秀で、出世した人っぽいことはわかったけど、いったい何をした人なんでしょ?簡単に経歴を見てみますか。
速雄さんは、1858年9月20日、土佐藩士・島村五平の次男として西町「島村速雄の生誕地」に生まれたそうな。
海南学校(今の小津高校)で学んだ後に、海軍兵学校に進学。同校を1880年に卒業した後は各艦の分隊長などを務めつつ出世していきます。
日露戦争時には第1艦隊参謀長兼連合艦隊参謀長(旅順攻略まで)、後に第2艦隊第2戦隊司令官となって、東郷平八郎を補佐し、日本海海戦で活躍する。戦後は海軍大学校長・軍令部総長・軍事参議官などを歴任して、1915年には大将に昇進、翌年男爵となる。1923年、66歳で死去し、同年に元帥に列せられる。
この経歴で注目したいのは日本海海戦での功績です。
日本海海戦で勝利した要因として「坂の上の雲」をはじめとする書籍では、秋山真之の活躍があるように書いてる。けど実は、防衛省戦史編纂室の調査結果によると、速雄さんのおかげらしいんです。もし本当に真之さんが「あの時も」活躍してたら、日本は確実に負けてたんです。どういう事かと言うと、こんな事が ↓ あったんです(写真は連合艦隊旗艦・三笠)。

日本海海戦前、連合艦隊司令部のある戦艦・三笠にて作戦会議が開かれました。その会議では、敵艦隊の出現場所を予想し、そこへ全戦力でもって出撃する(つまり待ち伏せする)事が決定されました。この計画では、考えりゃあわかるように、待ち伏せ場所の選定が重要になります。で、その待ち伏せ場所を予想したのが秋山真之さん。司令部は「秀才と名高い真之さんが予想した場所なら確実だろう」と、その場所に移動するよう各艦隊に指示を出します。
ところが速雄さんは、真之さんの予想とは違う場所に敵艦隊は現れると予想し、司令部と東郷長官へ意見具申します。東郷さんは、前海戦時に、真之さんの計画は理論的だけど実行には危険が伴うものが多く、そのため速雄さんが計画を一々念を押して詮議し、腑に落ちなければ同意しなかった事を知っていたので、「秋山より島村の知略のほうが勝る」と、速雄さんの予想した場所に移動するよう司令部に指示し変更させます。で、実際に敵艦隊はどこに現れたのかというと、真之さんの予想場所ではなく、速雄さんの予想した場所に現れました。これにより日本海海戦は成功し日本は勝利を得る事が出来ました。
じゃあ、なんで真之さんの功績になったん?と思うでしょ。
これも速雄さんのスゴイとこで、戦後に新聞記者から受けたインタビューに対して、「私は何もしていません。秋山参謀の作戦を東郷長官に取り次いだだけです」と言ったから。真之さんの理論的だけど 実行には危険が伴う計画を、一々念を押して詮議しチェックしてたにも拘わらずね。
こうゆう事からも、速雄さんは「軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物」と評されています。
それに関しては、こんな話 ↓ もあるそうです。
なんでも、日本海海戦の戦闘終了直後に、自身が司令官をしてる第2戦隊の旗艦・磐手の艦内にて、速雄さんは、艦長や幕僚達とシャンパンで祝杯をあげることにしたらしい。けど、戦闘によって、祝杯に使えそうなグラスのほとんどが割れてしまい、用意できたのは シャンパン用、ワイン用、ゼリー用、とバラバラになってしまったそうな。
仕方ないのでそれらにシャンパンを注ぎ、速雄さんは艦長にシャンパン用のグラスを勧めました。しかし、艦長よりも司令官の方が立場は上。艦長は遠慮をして「いえ、これは司令官がお持ちにならなければ・・・」と言います。すると 速雄さん、「いや、僕は今日の戦は見物していただけだから、よく働いた君がこれを飲めばいい」とさらに勧め、けっきょく艦長がシャンパン用を持つことになったらしい。「島村司令官の性格がよく現れているエピソードだ」と、艦長だった川島令次郎中将は述べている。
この他にも、雑誌『太陽』で行われた各界著名人の人気投票で、速雄さんが海軍部門の一位になった時も、「自分はその栄誉に値しない」「もっと相応しい者がおるのでその者に」と言って辞退し、記念品すら受け取らなかったそうだ。
こーんな感じに、功績を他人に譲るほど無欲だったためか、客人も必要以上にもてなし、そのため家計は苦しく清貧生活を貫いたらしい。 そこまでせんでも良いでしょ、速雄さん。ホント、人が良いんですね。
(写真は ↓ 三笠の参謀長室。ここで速雄さんは生活してた)

人が良いといえば、加藤友三郎との逸話があります。
加藤友三郎といえば、第21代の内閣総理大臣として有名。だけど元々は、速雄さんと同期の海軍軍人で、同じく元帥にまでなった人。しかも、加藤さんと速雄さんは、兵学校時代から無二の親友という間柄だったんですよ。
さて、その加藤さんなんですが、実は大腸ガンに侵されてて、速雄さんもその事を知らされてたんです。そんな折、加藤さんは総理大臣に就任するよう依頼されます。速雄さんは加藤さんの健康状態を慮って頑強に反対しました。しかし自身が先に脳梗塞で倒れ、うわ言で加藤さんを案じながら逝去されました。66歳でした。自分が死ぬ瞬間にまで親友の体調を思うなんて、どんだけ人が良いんでしょう。
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土佐の偉人
は、島村速雄(しまむら はやお)さん。日露戦争で活躍した海軍の大将・元帥で、当時の海軍きっての頭脳派・戦略家と謳われた人です。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」で有名かもだけど、念のためにご紹介。
ところで、大将・元帥ってなんじゃろ?
調べてみると、軍隊のなかで最上位の階級が「大将」で、その大将の中でも優秀な人が例外的になれるのが「元帥」らしい。今で言えば、大将が会長で、元帥が名誉会長みたいなもの?
まあ

優秀で、出世した人っぽいことはわかったけど、いったい何をした人なんでしょ?簡単に経歴を見てみますか。
速雄さんは、1858年9月20日、土佐藩士・島村五平の次男として西町「島村速雄の生誕地」に生まれたそうな。
海南学校(今の小津高校)で学んだ後に、海軍兵学校に進学。同校を1880年に卒業した後は各艦の分隊長などを務めつつ出世していきます。
日露戦争時には第1艦隊参謀長兼連合艦隊参謀長(旅順攻略まで)、後に第2艦隊第2戦隊司令官となって、東郷平八郎を補佐し、日本海海戦で活躍する。戦後は海軍大学校長・軍令部総長・軍事参議官などを歴任して、1915年には大将に昇進、翌年男爵となる。1923年、66歳で死去し、同年に元帥に列せられる。
この経歴で注目したいのは日本海海戦での功績です。
日本海海戦で勝利した要因として「坂の上の雲」をはじめとする書籍では、秋山真之の活躍があるように書いてる。けど実は、防衛省戦史編纂室の調査結果によると、速雄さんのおかげらしいんです。もし本当に真之さんが「あの時も」活躍してたら、日本は確実に負けてたんです。どういう事かと言うと、こんな事が ↓ あったんです(写真は連合艦隊旗艦・三笠)。

日本海海戦前、連合艦隊司令部のある戦艦・三笠にて作戦会議が開かれました。その会議では、敵艦隊の出現場所を予想し、そこへ全戦力でもって出撃する(つまり待ち伏せする)事が決定されました。この計画では、考えりゃあわかるように、待ち伏せ場所の選定が重要になります。で、その待ち伏せ場所を予想したのが秋山真之さん。司令部は「秀才と名高い真之さんが予想した場所なら確実だろう」と、その場所に移動するよう各艦隊に指示を出します。
ところが速雄さんは、真之さんの予想とは違う場所に敵艦隊は現れると予想し、司令部と東郷長官へ意見具申します。東郷さんは、前海戦時に、真之さんの計画は理論的だけど実行には危険が伴うものが多く、そのため速雄さんが計画を一々念を押して詮議し、腑に落ちなければ同意しなかった事を知っていたので、「秋山より島村の知略のほうが勝る」と、速雄さんの予想した場所に移動するよう司令部に指示し変更させます。で、実際に敵艦隊はどこに現れたのかというと、真之さんの予想場所ではなく、速雄さんの予想した場所に現れました。これにより日本海海戦は成功し日本は勝利を得る事が出来ました。
じゃあ、なんで真之さんの功績になったん?と思うでしょ。
これも速雄さんのスゴイとこで、戦後に新聞記者から受けたインタビューに対して、「私は何もしていません。秋山参謀の作戦を東郷長官に取り次いだだけです」と言ったから。真之さんの理論的だけど 実行には危険が伴う計画を、一々念を押して詮議しチェックしてたにも拘わらずね。
こうゆう事からも、速雄さんは「軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物」と評されています。
それに関しては、こんな話 ↓ もあるそうです。
なんでも、日本海海戦の戦闘終了直後に、自身が司令官をしてる第2戦隊の旗艦・磐手の艦内にて、速雄さんは、艦長や幕僚達とシャンパンで祝杯をあげることにしたらしい。けど、戦闘によって、祝杯に使えそうなグラスのほとんどが割れてしまい、用意できたのは シャンパン用、ワイン用、ゼリー用、とバラバラになってしまったそうな。
仕方ないのでそれらにシャンパンを注ぎ、速雄さんは艦長にシャンパン用のグラスを勧めました。しかし、艦長よりも司令官の方が立場は上。艦長は遠慮をして「いえ、これは司令官がお持ちにならなければ・・・」と言います。すると 速雄さん、「いや、僕は今日の戦は見物していただけだから、よく働いた君がこれを飲めばいい」とさらに勧め、けっきょく艦長がシャンパン用を持つことになったらしい。「島村司令官の性格がよく現れているエピソードだ」と、艦長だった川島令次郎中将は述べている。
この他にも、雑誌『太陽』で行われた各界著名人の人気投票で、速雄さんが海軍部門の一位になった時も、「自分はその栄誉に値しない」「もっと相応しい者がおるのでその者に」と言って辞退し、記念品すら受け取らなかったそうだ。
こーんな感じに、功績を他人に譲るほど無欲だったためか、客人も必要以上にもてなし、そのため家計は苦しく清貧生活を貫いたらしい。 そこまでせんでも良いでしょ、速雄さん。ホント、人が良いんですね。
(写真は ↓ 三笠の参謀長室。ここで速雄さんは生活してた)

人が良いといえば、加藤友三郎との逸話があります。
加藤友三郎といえば、第21代の内閣総理大臣として有名。だけど元々は、速雄さんと同期の海軍軍人で、同じく元帥にまでなった人。しかも、加藤さんと速雄さんは、兵学校時代から無二の親友という間柄だったんですよ。
さて、その加藤さんなんですが、実は大腸ガンに侵されてて、速雄さんもその事を知らされてたんです。そんな折、加藤さんは総理大臣に就任するよう依頼されます。速雄さんは加藤さんの健康状態を慮って頑強に反対しました。しかし自身が先に脳梗塞で倒れ、うわ言で加藤さんを案じながら逝去されました。66歳でした。自分が死ぬ瞬間にまで親友の体調を思うなんて、どんだけ人が良いんでしょう。
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を15分程こいでると、こんな↓時計塔がついてる家がありました。
らしいんです。もちろん部品も手作りとのこと。しかし何故に時計を造ろうと思ったんでしょ?
を見て、その仕組みに興味を持ったそうです。
を作ろうと決意しました。彼は、分銅から歯車といったすべての部品を、たった一人で作り上げ、ついに大時計を完成させたそうです
すごいですね













はーやくこい






