高知市には、市を上下にぶった切るように流れる川があります。
その名を『鏡川』といい、時の藩主・山内豊房が『我が影を映すこと鏡の如し』と言ったことに由来しています。
確かにこの川は、澄んだ水と広い川幅のおかげで 太陽光が川面に射すと、まるで鏡のように見える時があります。昔はもっと綺麗だったそうで、1907年に高知に御幸された大正天皇(当時は皇太子)は、鏡川を見るやいなや「水よき哉(かな)」とお褒めになり、滞在されていた建物に「水哉閣」と賜名されるほど、感動されたそうです。
さて、
その「水哉閣」と賜名された建物なんですが、実はそれ、山内容堂の下屋敷内にあったんです(ちなみに下屋敷とは、上級武士の別邸のことです)。で、これが ↓ その下屋敷にある武家長屋。この長屋は下屋敷を警護する武士が宿泊するために使ってたらしい。ちなみに下屋敷の道を挟んだ反対側には南邸山内家の屋敷である南御屋敷「山内家の四屋敷跡」がありました。

そういえば、この道なんですけどね、「刑事物語」って映画のワンシーンで武田鉄矢が扮する片山刑事が通ったんですよ。こーんな感じに ↓ 背中にドライバー背負ってね。けど、なんでドライバー背負ってんの?って思うでしょ?それはね…

こうすんですよ ↓
このドライバー棒術で、悪者をぶっ倒すんです。この他にも、ハンガーヌンチャクっつー技があるんだけど、この映画にはチョットしか出てこないんだよね~。「刑事物語5」ではハンガーヌンチャクのシーンが多くあるんですけどね。そういえばハンガーヌンチャク、よーまねして怒られたわ~。

��( ̄□ ̄;)
話がズレましたね…。
残念ながら、この下屋敷は戦後に民間へ売却され今はホテル三翠園になってる。当時のまま残ってるのは、さっきの長屋と大門のみ。両方とも、ホテル三翠園の敷地内になるんだけど、見学は宿泊客じゃなくても無料で出来る。ただし内部の写真撮影は厳禁ね。
あ、そういえば、このホテルには、今は無いけど物見亭(別名・散田邸)という建物があって、そこで西郷隆盛と山内容堂が会談したらしい。

1860年代中頃、薩摩藩は、日本の国家運営を幕府ではなく 全国の大名による議会で行おうと考えてました。その下準備として、雄藩を集めた四侯会議を開いて、徳川慶喜から政権を奪う計画を画策することにしました。
で、当時 雄藩の一つだった土佐の容堂さんのもとへ、その会議への出席を依頼するために使者を遣わします。それが西郷隆盛だったんです。1867年2月16日、西郷隆盛はこの下屋敷内の物見亭にて 容堂さんへの謁見が許され、四侯会議へ出席するよう説得したそうです。ちなみに、立て札に書かれてる「西郷南州」ってのは、西郷隆盛のことだよ。

さてさて、
急に話が変わるけど、「酒は飲め飲め、のむならば~」の歌詞で有名な、黒田節ってのがありますよね。
あの歌は福岡藩が発祥とされてるんだけど、その支藩に秋月藩ってのがありまして、そこの第10代藩主に黒田長元さんって方がいるんですよ。実はこの長元さん、第10代土佐藩主・山内豊策の五男で、容堂さんのおじさんにあたる人なんですわ。その二人がある日、酒を酌み交わすことになったそうなんです。

二人で酒を飲んでると、容堂さん、長元さんが腰に差してる脇差に興味を持ったらしく「長元さん、腰のモノ(刀)は正宗っすか?」と尋ねたそうな。尋ねられた長元さんは「おう、そうやよ。見てみる?」と答え 刀の柄を取り外したんだけど、何故か刀を見せずに柄の中を見せたんです。容堂さんは「?」と思いつつ 柄の中を見てみると、なんと刀の正宗ではなく酒の正宗が入ってたらしい!
長元さんは黒田節、容堂さんは鯨海酔侯と自称したほど、酒を愛した二人。この二人にぴったりな逸話ですね。まあ、この話は作り話だろうけど、二人がここで酒を酌み交わすことはあったかもしれません。この↑↓写真は鷹匠公園。むかし南御屋敷があった場所です。ちなみに、この裏には 歴代藩主を祭ってる山内神社と、山内家宝物資料館があります。

【おまけ】
冒頭で、大正天皇が、滞在された建物に「水哉閣」と賜名されたって言いましたよね。
今その建物は無いんだけど、供奉員として来られてた東郷平八郎大将が墨書した書があるんですよ。
それがこれ↓ ホテル三翠園に展示してるとのこと。

あかん。
ハンガーヌンチャク、やりたくなってきた・・・。
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その名を『鏡川』といい、時の藩主・山内豊房が『我が影を映すこと鏡の如し』と言ったことに由来しています。
確かにこの川は、澄んだ水と広い川幅のおかげで 太陽光が川面に射すと、まるで鏡のように見える時があります。昔はもっと綺麗だったそうで、1907年に高知に御幸された大正天皇(当時は皇太子)は、鏡川を見るやいなや「水よき哉(かな)」とお褒めになり、滞在されていた建物に「水哉閣」と賜名されるほど、感動されたそうです。
さて、
その「水哉閣」と賜名された建物なんですが、実はそれ、山内容堂の下屋敷内にあったんです(ちなみに下屋敷とは、上級武士の別邸のことです)。で、これが ↓ その下屋敷にある武家長屋。この長屋は下屋敷を警護する武士が宿泊するために使ってたらしい。ちなみに下屋敷の道を挟んだ反対側には南邸山内家の屋敷である南御屋敷「山内家の四屋敷跡」がありました。

そういえば、この道なんですけどね、「刑事物語」って映画のワンシーンで武田鉄矢が扮する片山刑事が通ったんですよ。こーんな感じに ↓ 背中にドライバー背負ってね。けど、なんでドライバー背負ってんの?って思うでしょ?それはね…

こうすんですよ ↓
このドライバー棒術で、悪者をぶっ倒すんです。この他にも、ハンガーヌンチャクっつー技があるんだけど、この映画にはチョットしか出てこないんだよね~。「刑事物語5」ではハンガーヌンチャクのシーンが多くあるんですけどね。そういえばハンガーヌンチャク、よーまねして怒られたわ~。

��( ̄□ ̄;)
話がズレましたね…。
残念ながら、この下屋敷は戦後に民間へ売却され今はホテル三翠園になってる。当時のまま残ってるのは、さっきの長屋と大門のみ。両方とも、ホテル三翠園の敷地内になるんだけど、見学は宿泊客じゃなくても無料で出来る。ただし内部の写真撮影は厳禁ね。
あ、そういえば、このホテルには、今は無いけど物見亭(別名・散田邸)という建物があって、そこで西郷隆盛と山内容堂が会談したらしい。

1860年代中頃、薩摩藩は、日本の国家運営を幕府ではなく 全国の大名による議会で行おうと考えてました。その下準備として、雄藩を集めた四侯会議を開いて、徳川慶喜から政権を奪う計画を画策することにしました。
で、当時 雄藩の一つだった土佐の容堂さんのもとへ、その会議への出席を依頼するために使者を遣わします。それが西郷隆盛だったんです。1867年2月16日、西郷隆盛はこの下屋敷内の物見亭にて 容堂さんへの謁見が許され、四侯会議へ出席するよう説得したそうです。ちなみに、立て札に書かれてる「西郷南州」ってのは、西郷隆盛のことだよ。

さてさて、
急に話が変わるけど、「酒は飲め飲め、のむならば~」の歌詞で有名な、黒田節ってのがありますよね。
あの歌は福岡藩が発祥とされてるんだけど、その支藩に秋月藩ってのがありまして、そこの第10代藩主に黒田長元さんって方がいるんですよ。実はこの長元さん、第10代土佐藩主・山内豊策の五男で、容堂さんのおじさんにあたる人なんですわ。その二人がある日、酒を酌み交わすことになったそうなんです。

二人で酒を飲んでると、容堂さん、長元さんが腰に差してる脇差に興味を持ったらしく「長元さん、腰のモノ(刀)は正宗っすか?」と尋ねたそうな。尋ねられた長元さんは「おう、そうやよ。見てみる?」と答え 刀の柄を取り外したんだけど、何故か刀を見せずに柄の中を見せたんです。容堂さんは「?」と思いつつ 柄の中を見てみると、なんと刀の正宗ではなく酒の正宗が入ってたらしい!
長元さんは黒田節、容堂さんは鯨海酔侯と自称したほど、酒を愛した二人。この二人にぴったりな逸話ですね。まあ、この話は作り話だろうけど、二人がここで酒を酌み交わすことはあったかもしれません。この↑↓写真は鷹匠公園。むかし南御屋敷があった場所です。ちなみに、この裏には 歴代藩主を祭ってる山内神社と、山内家宝物資料館があります。

【おまけ】
冒頭で、大正天皇が、滞在された建物に「水哉閣」と賜名されたって言いましたよね。
今その建物は無いんだけど、供奉員として来られてた東郷平八郎大将が墨書した書があるんですよ。
それがこれ↓ ホテル三翠園に展示してるとのこと。

あかん。
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土佐の偉人
と思うでしょ
確かに「元始、女性は太陽であつた…」という創刊の辞で有名な「青鞜」が、婦人参政権運動の起源と一般には言われてます。けど実は、その雑誌の創刊は1911年のこと。喜多さんはその30年以上前に女性参政権を国に要求し、なんと勝ち取ってるんです
どっちが起源と言えるかは、言わずもがなですね。
を滞納したんです。「税金払ってほしくば選挙させろ!」ってね。同時に高知県庁へ抗議文も提出しました。さらに、喜多さんの考えに賛同した町会は3ヶ月にわたる抗議行動を実施しました。それでも県は、喜多さんの要求を受け入れなかったため、喜多さんは内務省にまで意見書を提出します。このような、女性が政治活動を起こすといった行為は 当時は非常に珍しかったため、1879年1月26日には「大坂日報」、1月31日には「東京日日新聞」や「読売新聞」、2月1日には「横浜毎日新聞」などにより、全国へ報道されました。
これは、日本初の女性参政権の正式な認可になると同時に、世界で2番目の女性参政権の認可となるものでした。

、女性参政権は再び失われてしまいます
ですが喜多さんはそれに屈せず、女性解放運動を続けます(その姿勢から喜多さんは「民権ばあさん」と呼ばれる様になりました)。ちょうどその頃から全国で、平塚らいてう に代表される女性達が 婦人参政権の要求を訴え始めます。らいてう達に事後を託すかのように、喜多さんは、1920年に亡くなります。享年84歳、墓は筆山に建てられた。



