今回の土佐の偉人は、竹内明太郎(たけうち めいたろう)さん。

世界的建機メーカー・コマツの創業者であり、早稲田大学理工学部の設立や、日産自動車の誕生に関わった人です。
この他にも、夕張炭鉱など多くの鉱山・鉄工所を経営した実業家であり、吉田茂の兄、麻生首相の大伯父にあたる人でもあります。


ん~。
多くの鉱山や鉄工所を経営してて、あのコマツや日産自動車の誕生に関わった人なんですか?
なんか、日本の工業に貢献した人っぽいですよね。いったいどんな事した人なんでしょ?
ちょっと生い立ちから見てみましょうか。



明太郎さんは、1860年3月20日、土佐藩家老の家臣・竹内綱の長男として宿毛に生まれたそうな。
10歳まで高知の「日新館」で和・漢学を学ぶんだけど、1870年に、父が大阪府典事に就任することになったんで、一緒に大阪へ引っ越すことに。で、大阪では「【土佐の偉人�@】 川田龍吉:男爵イモの起源」でもちょっとふれた、岩崎家内にある英語塾で英語を学ぶんだけど、3年後に父が、今度は大蔵省で働くことになったんで、またまた引越。東京へ。
東京では、中村正直の「同人社」や、中江兆民の「仏学塾」といった私塾で勉強するんだけど、兆民さんとは同じ土佐人ということもあってか親密な交流があったそうで、強い影響を受けたらしい。特に思想面で強い影響を受けたらしく、自由民権運動に参加するようになり、ついには自由党に入党して本格的な活動をはじめようとします。
だけど1886年、急にその活動を中断します。父から佐賀県にある芳谷炭坑の経営を任されたんです。明太郎さん26歳のときです。




明太郎さんが引き継いだ芳谷炭坑は、元々、父の綱が経営していました。ですが、政治家になっていた綱は、政治に専念するため炭鉱経営を明太郎さんに任せたようです。
任せられた明太郎さんは、父が展開していた炭鉱のみの事業を、炭鉱+鉱業へと拡大発展させ、1894年に竹内鉱業株式会社を設立します。その会社は規模を拡大し、傘下に、遊泉寺銅山(石川県)、茨城無煙炭鉱(茨城県)、橋立金山(新潟県、大夕張炭鉱(北海道)、などを治めるほど成長しました。
この成功により明太郎さんは、実業家としての自信を持つようになり、また日本の工業力は諸外国と比べても見劣りしないものだろうと思うようになったんですが、1900年に開催された「パリ万国博覧会」を観覧したとき、諸外国の工業製品のレベルの高さに衝撃を受け、愕然とします。

なぜ愕然としたのかと言うと、博覧会に展示されてる諸外国の工業製品と日本のそれを比較してみると、日本のはどう見ても見劣りしてたからなんです。明太郎さんは一瞬、なぜ?と思ったけど、すぐにその原因に気付いてしまいました。それは、日本の工業技術力が、まだまだ未熟だということです。
モノは、設計→加工→組立の順に作られます。そして、質の高いモノを造るためには、その各段階で質の高い作業がされる必要があります。ですが、日本はつい最近になって工業化を始めたばかりなんで、工業技術力がまだ未熟で、その各段階において質の高い作業が出来なかったんですね。なので、見劣りするモノしか造れなかったんです。
これはイカン!日本の工業技術力を欧米に負けないようにしなくては!っと明太郎さんは、2つの方針を定めます。それは、1.鉱業→工業への事業転換および工業技術力の向上、2.工業技術の教育振興、です。

1.鉱業→工業への事業転換および工業技術力の向上
明太郎さんは、欧米の工業技術に勝つためには、まずはじっくり技術力をつける必要があると思いました。そのために、研究開発兼用の鉄工所を設立し、次の3つのコンセプトのもと研究開発を進めました。�@最初は販売用の製品を作らず、自社内で試作品を何度も造っては改良を重ねて独自技術を開発し、欧米諸国の技術にキャッチアップする。�A研究させるには、都会の喧騒を離れた静かな土地のほうが良い。なので鉄工所は、田舎にある竹内鉱業の炭鉱等の付属施設として設立・運営する。�B技術がキャッチアップしたら、その技術を盛込んだ製品を輸出して、世界の舞台で勝負する。
このコンセプトのもと、明太郎さんは、1909年に唐津炭鉱に「唐津鉄工所」を設立し、1917年には遊泉寺銅山に「小松鉄工所」を設立しました。
各鉄工所における研究活動は、数年後に実ります。まず唐津鉄工所では、竹内鉱業の各鉱山で使われる機械の設計・製作を行うようになり、同様のことを小松鉄工所でも行うようになりました。小松鉄工所ではそれに加え、1914年からトラック製造を開始します。トラック製造が順調に伸びていった小松鉄工所は、1921年に「小松製作所」と名称変更し、これが今の世界的建機メーカー・コマツとなりました。ちなみにコマツは、後に国産初のブルドーザーを生産し、インフラ整備に必要な建機を生産することで、戦後復興・経済成長に貢献しました。
(↑ コマツのロゴマーク。コマツは、日経の『優れた会社ランキング』で、トヨタやキヤノンを抜いて堂々1位(06・07年度)になった事もある世界的建機メーカー。)

2.工業技術の教育振興
日本に工業技術者が少ない事および、これから日本が発展していくためには工業技術の発展が重要であることを感じた明太郎さんは、1902年から自分の会社の社員を海外に留学させて一流の研究者に育てることにしました。そして、その社員達を教員にした私立の工業大学を、唐津に建てることにしたんです。
だけど、唐津だと生徒が集まらない事と、早稲田大学から「工業系学部を設置したいが資金がないので援助してほしい」という依頼があったことから、多額の寄付とともに、私費で育成した研究者すべてを教授として早稲田大学に送りこみ、早稲田大学理工学部を設立しました。ちなみに、教授陣の給料を数年間負担したそうです。また、地元高知には父の綱とともに、高知県工業高校(現・高知工業高校)を設立して、工業技術の教育振興に尽くしました。
(↑ 開設当時の早稲田大学・機械科実験室校舎)

このように明太郎さんは、欧米の工業技術力にキャッチアップするよう研究開発を進めることで、高品質な工業製品(特にインフラ整備に必要な建機類)を開発・生産し、インフラ整備に貢献しました。また、その際に得られた知識・技術は蓄積・発展され、後に戦後復興・経済成長を下支えする建機類を世に出すことになり、両者の早期な実現につながました。これに加え、早稲田大学理工学部を設立し、工業技術に精通した人材を育成することで、後の日本の工業化を担う人材も多数輩出させました。これを見ると明太郎さんって、日本の工業化に大きな貢献をしていると言えませんか?
あ、そうそう、工業化に貢献してるといえば、もう一つの貢献があります。それは、日産自動車の誕生に深く関わっているんです。




様々な会社の株主だった明太郎さんは、九州炭鉱汽船という会社の株主でもありました。
その会社には、アメリカに留学して技術を勉強してた橋本増治郎という人がいたんだけど、技術者を重視してた明太郎さんは この増治郎さんの存在を知ると、興味を持っちゃったんです。
「増治郎さんってのはどんな人なんじゃ?」と会社に聞いたところ、「今は長崎県の崎戸島という不便な島に赴任してますわ~」とのこと。それを聞いた明太郎さんは「不便な生活してるじゃろう…」と、増治郎さんに唐津の新鮮な野菜を届けました。「なんで、こんな事してくれるんだろ?」と最初は思った増治郎さんでしたが、何度も送られてくると、しだい心を開いてきて、二人は親密な交流をするようになっちゃったらしい。んで、ついに増治郎さんは、明太郎さんに言っちゃいます。「ワシ、自動車造りたい!」と。

元々、日本を工業立国にしようとしてた明太郎さんは、「おもろそうやんかえ!」と、増治郎さんの話に大乗り気に。増治郎さんを社長とした「快進社自働車工場」を設立させようと動きだします。まず、東京にいた弟の吉田茂のとこに行き、「お前んち(家)の土地に工場建てるき、よろぴく!」と、快進社の本社・工場を建てます。そして、増治郎さんを東京へ呼び寄せ、国産初のガソリンエンジン自動車の試作を行わせ、1914年に国産第一号自動車を完成させます。長年の夢だった国産自動車を完成させた増治郎さんは その車に、増治郎さんが「産みの親」と慕う田健次郎(D)・青山禄郎(A)・竹内明太郎(T)のイニシャルをとって「DAT(ダット)号」と名付けました。このダット号は1932年に量産され、それはダットサンと命名されました。
車好きはもうお気付きかもだけど、この「快進社自働車工場」が、今の「日産自動車」になるんです。「快進社自働車工場」は1923年に「合資会社ダット自動車商会」となり、その後「実用自動車製造株式会社」へ。さらに「ダット自動車製造株式会社」となり、その後、あの鮎川義介が社長を務めてた「戸畑鋳物株式会社」の傘下に入って、ついに1934年に「日産自動車株式会社」と名称変更して、今に至ることになります。
増治郎さんはこの間、明太郎さんの求めに応じて小松鉄工所の初代所長を兼務するなど、明太郎さんの事業を支える優秀な技術者の一人としても活躍したそうです。
(↑ 高知工業高校にある明太郎さんの銅像)



日本の工業発展・工業技術の教育振興に尽力した明太郎さんですが、その後は下り気味の人生となります。まず、繁栄を誇った竹内産業が、第一次世界大戦後の不況により清算することになります。清算後も、明太郎さんは、小松製作所を実質的に経営し、戦後恐慌を乗り越えようと努力しますが、1928年3月23日に肺炎で亡くなります。享年69歳でした。
明太郎さん亡き後のコマツは、鋳鋼やトラクターを生産して息を吹き返し、第2次大戦後に世界で活躍して、フォーチュン100のNo1にあるキャタピラー社の強力なライバルとなります。ちなみにフォーチュン100とは、全米売上上位100社をランキングしたもの。で、その100社でNo1になってるキャタピラーは、アメリカで1番売上が大きい会社ということになります。そんなスゲー企業と闘ってるコマツってスゴクナイですか?
明太郎さんは、そんな世界的建機メーカー『コマツ』を創業したり、日本を代表する自動車メーカー『日産』の誕生に関わるという偉大な功績を残した人です。もっとこの方の功績に注目しようじゃありませんか!



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