2009年07月

夢窓国師ってご存知ですか?

けっこう御歳を召されてる方や、日本史を勉強してる高校生には、知ってる人が多いかも知れませんね。
あ、もしかして、夢窓疎石って言った方がわかりやすいのかな?まあ、どんな人かを説明すんのは面倒くさいんではしょるけど、室町幕府(つか足利尊氏)の政治顧問になったりした、偉いボンさんなんです。

で、その偉いボンさんがどうしたの?かと言うと、
ここ高知にも来てたんですよ。1318年に。しかも、かなりお気に入りになったらしい…




…高知にきた国師は、吸江庵という草庵を建て、そこで色んな人に教えを説いてました(ちなみに絶海中津と義堂周信にも、このときに会ったと言われてる)。んで、教えを説く合間に、草庵の目の前に広がる海に出ては遊んでたそうなんです。
国師が来られた頃の高知は、今とまったく景色が違ってて、今はこんな感じ(赤丸箇所が吸江庵跡) ↓ なんだけど、

当時はこんな感じ ↓ だったらしい。わおう!
国師はこの景色を めっさ愛したそうで、船を浮かべては、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ、と湾内を巡って楽しんだそうな。で、そのついでかなんか知らんけど、こーんな歌を歌ってます。

心あらん 人に見せばや吸江の 岸の向ひの 夕べあけぼの
(訳:吸江から見る朝晩の美しい景色は、ものの価値を良くわかる優れた人にこそ見せてやりたいものだ。)

いまに見ぬ こま唐土はいざしらず 秋津島には ならぶ景なし
(訳:日本の中で、この吸江の美しい景色に勝る景色は、恐らく無いだろう。吸江の景色は日本一だ。)



国師が絶賛した かの風景は、今は見る影もない。
海面変化はしょうがないけど、守れる景観や自然はぜひとも守りたいもんです。
高知も都市開発するんなら、ちったあ京都を手本にしたらいいのに。


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筆山と潮江城」の項でちょっと書いた、菅原高視(すがわらの たかみ)の住居跡に行って来ました。


…と、言いたいんだけど、本当は行けなんだ。
というのも、道が草で覆われてるわ、藪蚊はでるわ、道に迷うわで、「もう無理っ!」ってなっちゃって降参、退却しちまいましたとさ。
場所はここらへん ↓ だから、行ってみてね。
あ、朝臣(あそん)ってのは階級みたいなもんだよ。

え、
ところで菅原高視って誰?だって?
菅原高視ってのは、学問の神様で有名な、あの菅原道真の息子。
そんな人が なんで高知にいたのかってゆうと、901年に、親父の菅原道真が政敵の政略に会い 九州の大宰府に左遷されたのに連座して、この高知に飛ばされちゃったわけ。その時住んでた屋敷跡が、さっきの場所にあるらしい。本に載ってた写真はこれ↓ 。こんなのが今もあるとのこと。
ちなみに、高視の住居のあった この山は、高視の名前にちなんで「高見山」という名前になっている。また、山のふもとにある街も高見町って名になってる。

高知にきた高視さんは、5年後に京へ帰ります。というのも、こんなこと ↓ があったから。
まず、親父の道真さんが903年に大宰府で死んじゃうんだけど、その死後、道真さんを左遷に追い込んだ藤原時平の一族に不幸が相次いだり、御所に落雷して醍醐天皇が崩御したり、醍醐天皇の子供も2人続けて崩御するなど、京の都には天変地異が相次いだのね。んで、「これは道真のたたりに違いない」と考えた京の人たちは、道真さんの霊を鎮めるために、子供である高視さんを京へ呼び戻し、復職させることにしたの。そのため高視さんは、906年に高知から京へ帰って 従五位上に叙され大学頭に復帰する。
けど、やっぱ不吉な奴の子供って事で 色々噂とかたって居づらく、それがストレスになってか、38歳の若さで病死する。これといった功績を残さないまま亡くなってしまい、無念なことだったでしょう…。けど、曾孫の孝標の娘である菅原孝標女は「更級日記」を記すという功績を残したんで、まあイイよね。
(たぶん赤丸箇所辺りに住居跡がある…と思う)。

ちなみに普通の天満宮は 道真さんを祭神として祭ってるけど、ここ高知の天満宮は高視さんも祭神として祭っており、それに加え 道真さんの形見の刀や衣、仏像なども保管し祭っている。
その形見を、道真さんの遺言とともに高知へ持って来たのは白太夫という人なんだけど、それはまた今度に。


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高知の人間にとって、筆山といえば、墓地として有名。

ここは、ごくごくフツーな一般家庭のお墓もあれば、土佐藩歴代の殿様の墓や、永野修身の墓、楠瀬喜多の墓、坂本竜馬の親父さんの墓などなど、高知の偉人も眠っておられる山でして、約数万のお墓があるそうなんです。まるで高知の「青山墓地」ですな。

なーんて事を言ってしまうと、ただの墓山みたいに思うかもだけど、実はこの山、昔は山頂にお城があったんです。その城の名は、潮江城。
(↓ 昔の筆山の写真。山を川に写った姿と合わせて見ると、まるで筆の様に見えるから「筆山」と名付けられた)。

潮江城は、いつ建てられたのかは分からないけど、少なくとも南北朝時代には建てられてたらしい。
誰が建てたのかと言うと、森近江守により建てられたとか、宮方三宮越前守により建てられたとか諸説あるけど、これまた未だに はっきりとは分かっていない。
城は山の山頂にあったそうで、その面積は約650坪、北面に3段の郭があり、南西北東には空掘が、そして城の周りには塀を巡らしてたそうな。

今は公園化されてて、どこに何があったのかは正直わかんない。
けど、築山みたいなのは数ヵ所ほどある。空掘りらしきものもあった。小学生の時にこの山登った時には、3段の郭址みたいなのもあったように思うんだけど…。今もどっかにあるはず。
あと、所々、庭石みたいな大きな岩が地面から出てる。あんな岩を公園化に際して わざわざ用意するとは思えないから、案外、潮江城時代に使われてた礎石だったりして。

現存する資料を基に、この城の移り変わりを見ると、今のところ分かってるのは、こんな ↓ 感じ。
�@この城に居城してた森氏が本山氏に滅ぼされ、本山氏の同族・片山平兵衛と八木幸奏が入城し潮江・鴨部を支配する → �A長宗我部元親が、初陣である長浜の戦いの帰りに(ついでに)攻め落とし占領する → �B長宗我部氏の家臣になってた森氏の生き残りが、再度入城する → 後はワカンナイ。
(ちなみに、自分の城を取り戻して貰った森氏は、筆山下に土居屋敷という休憩所を設けたんだけど、それが後に今の土居町の起源になる。)

ところで、この筆山の横には高見山という山が連なってあるんだけど、そこには 菅原高視の住居跡がある。菅原高視って誰やねん?って言うと、天神さんで御馴染の菅原道真の息子。その高視が、なんで こんな所にいたのかってゆうのは、また今度に…。


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まーもるっもー

せーめるっもー

くーろがーねのー


…。
第2世代イージス護衛艦「あしがら」を見てきたよ。
「あしがら」は第2世代イージス艦「あたご」型の2番艦で、第1世代イージス艦「こんごう」型の次世代を担う船なんだ。母港は佐世保とのこと。だから自衛隊員の言葉が九州っぽかったんだね。



今日(7月18日)来てたのは、右側の「あしがら」と、左側の「くらま」。
ちなみに「くらま」は、しらね型ヘリコプター護衛艦の2番艦で、テロ対策のためにインド洋に派遣された船。今回は「あしがら」をメインに φ(..)

これ ↓ は「くらま」の艦橋から「あしがら」の艦首側を
写真中央の左上にある 白いドラム缶みたいなのは、通称「ファランクス砲」という 20ミリ6連装のガトリング砲。正式名称を、艦艇用近接防御火器システム(CIWS)Mk.15と言い、対艦ミサイルからの防御を主目的とする。映画「沈黙の戦艦」で、戦艦ミズーリがファランクス砲でF18戦闘機を迎撃するシーンがあるんで、よかったら参考に見てみて。

これ ↓ は艦尾側を
煙突が2基あるのがわかる。
右側にある丸い2つの物体は、たしか、救命胴衣 or 救命筏 が入ってたはず。

艦首から艦橋を
手前にあるのは、Mk45Mod4・62口径5インチ単装砲。砲を覆うシールドが「こんごう」型のそれと比べて小型になり、形状もステルス化されてるように思う。
艦橋の左右にはスパイレーダーが、そして艦橋と砲塔の間にはミサイル垂直発射システムが、あるのがわかる(詳細は後述)。

これが、Mk41・ミサイル垂直発射システム。
この前甲板には64セル(セル=発射口のこと)あり、後甲板には32セル設置されている。ちなみに、こんごう型は前甲板に32セル、後甲板に64セルあり、あたご型と逆になっている。その理由は後述。

これ ↓ は、こんごうがミサイルを発射した瞬間の写真。
こんな感じで、Mk41からミサイルが発射される。

これ ↓ は、艦橋側面に貼り付けられた AN/SPY-1フェイズド・アレイ・レーダー。
艦橋の斜め4方に各1基ずつ、計4基設置されている。これはイージスシステムの中心であり、その主たるセンサーである。最大探知距離は500キロメートルで、一度に200以上の目標を追尾できるとのこと。
ちなみに、下の方にある4つの円柱の物体は、チャフという防御兵器。
チャフは、敵からレーダー誘導ミサイルで攻撃を受けた際に、アルミ箔等を散布する。そうすると、アルミ箔等が、敵ミサイルが照射するレーダーを乱反射して、こちらの位置を撹乱し、ミサイルの軌道を逸らす、というもの。

艦橋から艦尾へ向かってると、こんなところに出る。
ここはちょうど船の真中あたりで、写真の中央右横に見える円柱の物体は、対艦ミサイル。
正式名称を、SSM-1B(90式艦対艦誘導弾)と言い、射程は150~200キロメートルだそうだ。こんごう型の対艦ミサイルはハープーン4基×2だけど、あたご型のそれは90式3基×2になってる。
対艦ミサイルポッドの奥には煙突が、さらに奥には1本のマストが見える。

さっきの場所を艦尾に向かって進むと、ヘリ格納庫と、ヘリ発着艦用の飛行甲板に出る。前世代のこんごう型には無かった新装備(飛行甲板はあったが格納庫がなかった)だ。
この他に、こんごう型との相違点として、後甲板用Mk41の数と位置がある。こんごう型では、後甲板上に64セルのMk41があるけど、あたご型はヘリの運用の問題から、格納庫横上に32セル搭載されてる。

比較の為に、こんごう型の艦尾をば。
こんごう型には、ヘリ格納庫が無いのがわかる。それに、辛うじてMk41のセルが見えるのがわかりますか?
視点をマストに移すと、こんごう型では4本の支柱で構成されてるけど、あたご型では一体化され1本になってるのがわかる。あと、あたご型では、艦橋構造物と船体とが一体化されてるのもわかる。これらの措置は、ステルス性を高めるに実施されたらしい。(↓ http://www.vspg.net/jmsdf/ddg174/ddg174-12.jpg)

なんか、須崎か宿毛かどっかを米軍の寄港地にしようって話があったけど、ここにすりゃいいじゃん。
新港って高い金注ぎ込んだにも拘らず、ほとんど使われてないよね?だったら米軍に使ってもらって、少しでも金落として貰ったらいいんじゃない?
イヤイヤ、基地化はないっすよ。だって津波来たら一発でアウトでしょ。だから大規模な施設は造らないと思うのね。だいたいすぐ近くには呉やら佐世保やらあるんだから。
え?艦船が高知に来たことないから、どうやって対応したらいいかわからないって?何をおっしゃる。昔は宿毛に連合艦隊が停泊してたこともあって、将兵の休養地になってたこともあるんすよ?それに食糧や燃料補給する位の寄港地だったら、そんなに滞在しないから、犯罪も多くは起こらないだろうしさ。
それに土佐沖は、あの戦艦・大和が公試航海するほど訓練に適した海。これは米軍だけじゃなく、海自にもここで訓練してもらって、訓練帰りに寄港してもらって、街でお金を落としてもらおう。なんてね。



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はい。
タイトル見て意味わかった人は、オタ確定です。

今回のポタは「前浜砲台跡」の項に書いた伊都多神社に行って来ました。
なんで「かんなぎ」をタイトルにしたのかと言うと、まあ、それは後で…。



伊都多神社の場所はね、前浜砲台跡の近くにあるんだ。
この写真の右にあるのが砲台跡なんだけど、まず、この道をまっすぐに進む。

次に、一番最初に出くわす交差点を右に。
んで、この道 ↓ をまっすぐ進む。

すると、目の前に伊都多神社が。
この神社の建立時期は不明だけど、少なくとも室町時代以前からあったらしい。
だけど本殿は、2005年に台風の被害を受けたため、2006年に再建されたものとのこと。道理でまっさらなわけだ。

これ ↓ は境内。
今は知らないけど、祭りの時には、この広場に出店が立ち並ぶ。
ちなみに2枚目の写真の道の横にも、出店が出てたと思う。

ここのナギ様、じゃなくて神様は、脚気平癒にご利益があるらしく、昔は「御伊都多様」と呼ばれて土佐一円で広く崇敬されてたらしい。

で、なんで「かんなぎ」をタイトルにしたのかと言うと、この神社には、ナギ様とざんげちゃん並みに不仲の姉妹神が祭られてるから。

なんでも、土佐清水市の伊豆田神社に長女神、ここ南国市・前浜の伊都多神社に次女神、同じ南国市の田村に三女神と、三姉妹の神様が祭られてるんだけど、どう言う訳か、ここの次女神と田村の末女神が不仲だったらしいのね。

んで、田村の神社が祭のときには、前浜の神社に「きい~!この姉さまめっ!!」っと、石を投げ込む風習があったそうなんすわ。



むう~。
石を投げ込むなんて、まるで、ざんげちゃん並みの傍若無人っぷり。
しかも姉妹の産土神が、不仲でケンカするなんて、まさに「かんなぎ」じゃないっすか!

あれ?
けど、長女神がいないな。
そうか! ウルド…



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