2009年08月

坂本竜馬や山内容堂、桂小五郎や吉田東洋などもコレクションしてた刀鍛冶で、新々刀ベスト3に入る刀匠、左行秀(さのゆきひで)の寓居が、ここ ↓ にあったらしい。河野敏鎌の生誕地近くにある小学校の体育館辺りがそうで、門は写真の右側にある道路に沿って建っていた。

行秀さんは、1813年筑前生まれ。
本名は豊永久兵衛なんだけど「左文字三十九代末孫」として「左行秀」と名乗る。筑前から江戸に出て、清水久義のもとで鍛刀技術を学んだのち筑前に戻って活動する。1846年に土佐藩のお抱え工となり、大方町に移り住む。その後「関田真平勝弘」という土佐藩の「御鉄道具御用兼藩工」の知遇を得て、彼の亡き後に同役を継ぐ。その時住んでたのがここ ↑ みたい。
1860年、再び江戸に出て、江戸・砂村の土佐藩邸で活動し1867年に土佐へ戻る。この頃から「東虎」と銘字した刀を打っている。「虎徹」にあこがれを持ってたから「東虎」にしたとかしないとか…。愛刀家の間ではお宝ものだそうだ。1870年頃に刀鍛冶を引退したようで、1887年に75歳で没する。墓所は大阪など諸説ある。⇒墓所「左行秀の墓」に行ってきました!

ちなみに、これ ↓ は、刀名鑑みたいなのに載ってる行秀さんの刀。
約3000人の刀匠の中で写真が掲載されるのは、よほどの名刀匠だという証拠です。


ちなみに鍛冶場はここではなく、現・喫茶さいたにやの北西辺り・近藤長次郎の家の近くにあった。
そのため、長次郎と親交があり、長次郎の遊学資金を行秀が出してる。
高知は狭いですな。なんやかんやで、どっかで誰かと繋がってます。



今回の土佐の偉人は、今村長賀(いまむら ちょうが)さん。

長賀さんは、廃刀令以降に衰退しかけた日本刀の保存に従事した人で、今日 世界に誇る美術品・日本刀があるのは、この人のおかげなんです。



ところで、刀の鑑定方法って知ってる?なんでも、2種類あるらしいよ。
一つは本阿弥掟鑑定。その鑑定法は「龍河洞商店街と土佐打刃物」でちょっとふれた五伝を特徴ごとに分類し、これに時代背景と、個々の鍛冶の作風を考慮して鑑定するらしい。今はこの方法が一番有名らしいけど、鎌倉・室町時代には、本阿弥掟鑑定のような形式的な鑑定法よりも、実戦に耐えうるものか否かも含めた総合的な鑑定法が主流だったそうで、それがもう一つの鑑定法・武家目利。
武家目利の考え方は、優れた刀剣は必ず美しさと実用性とが相関するというもの。つまり、ぱっと見は良くても実用性が無い刀はよくよく見ると品が無くて美しくなく、逆に実用的で優れた刀は自ずと気品を醸し出しており美しいらしい。
で、長賀さんは、本阿弥鑑定法をアンチテーゼにし、かつ武家目利をベースにした鑑定法を生みだした人。
さて、そんな功績を残した長賀さんって、どんな人なんでしょ?




長賀さんは、1837年に土佐藩士・今村長修の子として生まれたそうな。
戊辰戦争時には土佐藩兵として従軍し、維新後は陸軍に入って1868年の東征の役に従軍、1877年に陸軍一等主計になる。この軍歴のなかで知り合った人達に刀剣愛好家が多かったみたいで、後述する中央刀剣会を設立する際に発起人になってくれてたりする。
いつから刀剣に興味を持つようになったのかは分かんないけど、本阿弥一族の本阿弥平十郎に刀剣の鑑定を学んでおり、本阿弥掟鑑定法を習得してる。なのに後に、武家目利をベースにした鑑定法を生み出すのは、戊辰戦争をはじめとする実戦を生き抜いた中から「優れた刀は外見だけでは決められない」という事を感じたからなのかもしれないね。まあ兎も角、軍人時代に刀剣愛好家だったのは確実みたいで、その事が長賀さんの人生を変えます。

1.鑑定家人生のスタート
1876年に出された廃刀令の影響で、刀剣文化が衰退して行きました。
その様子を見た明治天皇は、もともと刀剣好きだった事もあって、刀剣保護のために刀剣に詳しい人材を集めだします。そのお声は、刀剣に詳しいと仲間内で有名だった長賀さんにもかかり、1881年に宮内省御用掛に抜擢されました。長賀さんのプロ鑑定家人生のスタートです。
鑑定家としての長賀さんは高い評価を受けました。その結果、1886年に靖国神社・遊就館の取締役になります。さらに1889年には、臨時全国宝物取調鑑査掛となり、全国の社寺・旧家の所蔵刀の調査や、東京・奈良の帝室博物館にある刀剣を鑑定し、その功績から宮内庁・御刀剣係になりました。
宮内庁・御刀剣係となり、刀剣鑑定家として絶対の名声を得た長賀さんは、今は否定されてるけど「正宗抹殺論」を唱えたり、中央刀剣会の設立に乗り出します。

2.中央刀剣会の設立
1900年8月、長賀さんは、日本刀の保存・発展を目的とした中央刀剣会の設立を提唱します。
それに賛同したのは、同じ土佐出身の人や、軍歴の中で知り合った人もいるんだけど、下記のスゴーイ方達でした。

発起人(一部)
犬養 毅 … 第29代内閣総理大臣、立憲政友会第6代総裁。
寺内正毅 … 第18代内閣総理大臣、元帥陸軍大将・従一位勲一等功一級
岩崎彌之助(男爵) … 三菱財閥2代総帥、第4代日本銀行総裁
西郷従道(侯爵) … 元帥海軍大将・従一位大勲位功三級
片岡健吉 … 第7~9代の衆議院議長、第5代同志社総長
谷 干城(子爵) … 第2代学習院院長、陸軍中将・正二位勲一等
一木喜徳郎(男爵) … 枢密院議長
川村景明(子爵) … 元帥陸軍大将・従一位大勲位功一級。
片岡利和(男爵) … 明治天皇侍従、貴族院議員
田中光顕(子爵) … 宮内大臣、後に伯爵
田口卯吉 … 経済学者、歴史家
宗 重正(伯爵) … 対馬藩の第16代藩主
野津道貫(伯爵) … 元帥陸軍大将・正二位大勲位功一級、後に侯爵
大迫尚敏(男爵) … 第11代学習院院長、陸軍大将・正二位勲一等功二級
松浦 詮(伯爵) … 肥前平戸藩第12代藩主
朝吹英二 … 三井財閥・四天王の一人
関 直彦 … 東京日日新聞(現・毎日新聞)社長

こーんな御歴々 ↑ が発起人だし、明治天皇が刀剣愛好家だったこともあって、設立はスムースに運びます。
会本部は靖国神社・遊就館内に置き、全国に支部を設置して、日本刀の保存・振興に取り組むほか、皇太子・親王・宮家の守護刀・太刀の選定及び外装等の監製、元帥刀・陸海軍賜軍刀の選定・鑑査、一般刀剣類・附属美術品の審査・証明書発行といった活動を行った。
ちなみに、この会は今も活動してるけど、あまり活発な活動はしてないらしく、今は日本美術刀剣保存協会が鑑定活動をリードしてるそうだ。




日本刀の保存・発展に貢献した長賀さんは、1910年12月27日、東京麹町で亡くなります。74歳でした。収集した刀剣は、なんと3,000振りと言われてます。



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龍河洞を出ると土産物屋が並ぶ商店街がある。
けど、ここは他の商店街とちょっと違うんすわ。

何が違うかと言うと、刀や模造刀を販売してる店が多いのよ。特に、土産物は売らず、刀専門の店が数件ある。なんで土産物屋がたち並ぶ商店街の中に、刀専門の店が多いのかと言うと、ここは「土佐打ち刃物」の産地だから。

土佐打ち刃物ってのは、経済産業大臣指定の伝統的工芸品で、日本全国の林業で使われる刃物のシェア50%以上を占めてるんすよ。で、起源は長宗我部元親が連れてきた刀鍛冶が、この地域土着の刀鍛冶に技術指導して生まれたらしい。



実はワタクシ数年ほど居合を習ってたんです。
なので刀にも興味がありまして、ついついフラ~っと立ち寄ってしまいました。

刀には、相州伝・山城伝・備前伝・美濃伝・大和伝といった種類があるんだけど、土佐打刃物はどれに属すんかな?と聞いてみると、大体は出来るとのこと(?)。自分の好みの刀や装飾を頼めば、店の裏にある工房で造ってくれるらしい。時間がかかるようなら、宅配もしてくれるそうだ。けど、ほとんどの打刃物は、包丁・鎌・鋸とかを造ってるらしい。

もしかして維新志士も、土佐打刃物の技術で造られた刀を使ってたんかな?



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先日、龍河洞に行ってきた。

龍河洞ってのは、日本三大鍾乳洞の一つで、天然記念物・国史跡に指定されてる。
あと、他の鍾乳洞と違うのは、弥生時代ここで弥生人が暮らしてたらしく その痕跡が残されてること。当時使われてた土器が今も残ってるんだけど、それは長い年月を経て岩とくっついてて、通称「神の壷」として、考古学上世界唯一の貴重な資料となってるそうな。



で、これ ↓ が龍河洞の入口。
社みたいなのは龍王神社といって、承久の乱に連座して土佐へ流されてきた土御門上皇が この鍾乳洞を探検した時、目のさめるような一匹の錦の小蛇が現れて上皇を無事に案内した事から、剣と玉を奉納して、錦の小蛇を祭ったのが起源らしい。

この鍾乳洞の総延長は約4キロメートル。
そのうち約1キロメートルが通常ルートとなってて、予約すれば冒険コースってのにも行ける。今回は通常ルートだったけど、なかなか冒険です。

鍾乳洞内には、数十ヶ所の見所がある。
これは ↓ その内の1つ「天降石」と「絞り幕」。
「天降石」は高さ11mの鍾乳石で「絞り幕」は高さ6m。見事な調和です。枯山水の石庭なんか目じゃありません。スケールが違いすぎます。

今日は、盆休みで帰省していたヤマーと一緒に行きました。
ヤマーは消防…じゃなくて、ファイヤーファイターなんです。
なんでファイヤーファイターって言い直したのかと言うと、ヤマーの尊敬するアメリカの消防士が「オレは消防士(ファイヤーマン)じゃない。ファイヤーファイターだっ!」って言ったのに感銘して、それを聞いて以来ファイヤーファイターと言ってるからなんです。確かに火と戦ってますもんね。うん。ファイターだ。

けっこう起伏の激しいとこでして、こんな急な所もあります。
ここは「通天門」という所。大概の個所には名前が付いてます。

さっきの「通天門」から、ずーっと、ひたすら登ってます。
するとヤマーが「なんか、しんどくない?」とワシに一言。まったく同意のワシも「そうやね、そう言えばここの名前って何にゃろ?」と応答。で、ふと看板を見てみると…

↓ ��(◎Д◎) そのまんまやんけっ!!

はい。
ごゆっくりと登ると「連星殿」という所にでます。
ここはその名のとおり、天井を見上げると、無数の鍾乳石についてる水滴が、まるで天に浮かぶ星座のように輝いています。この近くには「月宮殿」「見返り坂」「万象殿」「逢坂峠」という見所が続いてます。

ここには、マリア様とお釈迦様がいらっしゃいます。
もちろんワザと造ったんじゃなくて、自然に鍾乳石が形作ったもの。左がマリア様で、右がお釈迦様。江戸時代とかに洞窟とかで信仰してたとゆう隠れキリシタンの気分を味わえた気がする。

他にも色々見どころはあるんだけど、写真じゃこのスゴサは絶対伝わらない。
それに70年以上続いてる「ある実験」も見られるよ。ぜひ現地に行って見てもらいたい所です。


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8月15日。
あなたは、この日を何の日かご存知でしょうか?



終戦記念日。



その通りです。
1945年8月15日、日本はアメリカをはじめとする連合国に敗れ、無条件降伏し、終戦を迎えました。後にこの日は、戦争の悲惨さを忘れず かつ後世に伝え、二度と同じ過ちを繰り返さないようにと記念日になりました。それが終戦記念日です。この事はみな御承知のことでしょう。ですが、この日に、宮城事件が起こったことを知っている人は少ないのではないでしょうか?
宮城事件とは、降伏に反対する陸軍軍人が起こしたクーデターのことで、天皇のいる宮城(皇居の事)を占拠し降伏宣言を妨げ、徹底抗戦しようとした事件のこと。そして、この事件でキーとなるのが、宮城を守る近衛師団。今回の土佐の偉人は、命をかけてこのクーデター参加を拒否した近衛師団長・森 赳(もり たけし)さんを取り上げます。



赳さんは、1894年4月25日、高知市に銀行員の長男として生まれた。
広島地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(28期)を恩賜で卒業し、騎兵少尉となる。その後、陸軍騎兵学校で学び、陸士学校教官などを経て、陸軍大学校(39期)に入学。卒業後は主に参謀畑を歩む。陰鬱の無いすっきりした性格で、幼年学校、士官学校、大学校いずれも成績がよく上官から目をつけられていた。いつのころからか禅による精神修養に務め、品川大徳寺の太田禅師の教えを受け、禅士が京都大徳寺に移った後も、京都まで出かけていたと言う。軍人、特に陸軍軍人にしては珍しく幅の広い軍人であった。
太平洋戦争を迎えると、第6軍参謀長、憲兵司令本部長を経て第19軍参謀長となり、アンボン攻略、ジャワ島防衛などを務める。参謀本部付となったため内地に帰国し、近衛第1師団長に就任。この時に宮城事件が発生する。



宮城事件を起こしたクーデター派の首謀者・畑中健二少佐は、宮城を防衛する近衛師団のトップ・赳さんに、クーデターに参加するよう説得します。ですが、赳さんは「陛下のご英断を覆そうとはおこがましい。大体、陛下を御守りするのが近衛なのに、それを破るのは言語道断」という趣旨のことを言い、キッパリと拒否します。するとそこへ上原大尉という者がやって来て「まだ話が付かないですか?」と言い、赳さんに強く責めよります。
赳さんが「バカなことは辞めるんだ。そんな事をしても国の為にならん」と言うと、上原大尉は「御国の為になる!」と言い放ち、傍にいた赳さんの副官に抜き打ちし、同時に畑中少佐が赳さんを銃撃した。
銃撃された赳さんは、胸に至近弾を受けたため死亡。享年62歳。畑中少佐らは、クーデター発覚を恐れて、殺害した赳さんの遺体をゴミ焼却炉に隠し、負傷した副官や 騒ぎを聞き駆け付けた警護兵を拘束・軟禁する。しかし、軟禁された警備兵が脱走し通報したためクーデターが発覚し、鎮圧され、無事に降伏宣言が成された。ゴミ焼却炉に隠された赳さんの遺体は、事件後に回収、葬儀されたのち、高知の筆山に埋葬された。



もし師団長がクーデターに加わっていたら、または曖昧な態度を取っていたら、降伏宣言が妨げられ終戦が遅れていたと言われています。つまり、赳さんが命をかけて、キッパリと拒否したから無事に終戦を迎えられたわけです。
ですが、そんな赳さんの墓所は今、人が入れないくらい荒れ果てた所になっているそうです。先日、筆山に行った時に探してみましたが、分かりませんでした。何故かこの国の人は、日本人の為に務めた軍人に対して冷たいように感じます。やはり日本を悲惨な目に遭わせた奴等だからだという事でしょう。だけど、みな国のため日本人の為に戦ったことには違いないので、もちっと軍人さんに感謝して、墓所ぐらいは整備しましょうよ。特に赳さんみたいな人にはさ。




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