坂本竜馬や山内容堂、桂小五郎や吉田東洋などもコレクションしてた刀鍛冶で、新々刀ベスト3に入る刀匠、左行秀(さのゆきひで)の寓居が、ここ ↓ にあったらしい。河野敏鎌の生誕地近くにある小学校の体育館辺りがそうで、門は写真の右側にある道路に沿って建っていた。

行秀さんは、1813年筑前生まれ。
本名は豊永久兵衛なんだけど「左文字三十九代末孫」として「左行秀」と名乗る。筑前から江戸に出て、清水久義のもとで鍛刀技術を学んだのち筑前に戻って活動する。1846年に土佐藩のお抱え工となり、大方町に移り住む。その後「関田真平勝弘」という土佐藩の「御鉄道具御用兼藩工」の知遇を得て、彼の亡き後に同役を継ぐ。その時住んでたのがここ ↑ みたい。
1860年、再び江戸に出て、江戸・砂村の土佐藩邸で活動し1867年に土佐へ戻る。この頃から「東虎」と銘字した刀を打っている。「虎徹」にあこがれを持ってたから「東虎」にしたとかしないとか…。愛刀家の間ではお宝ものだそうだ。1870年頃に刀鍛冶を引退したようで、1887年に75歳で没する。墓所は大阪など諸説ある。⇒墓所「左行秀の墓」に行ってきました!
ちなみに、これ ↓ は、刀名鑑みたいなのに載ってる行秀さんの刀。
約3000人の刀匠の中で写真が掲載されるのは、よほどの名刀匠だという証拠です。

ちなみに鍛冶場はここではなく、現・喫茶さいたにやの北西辺り・近藤長次郎の家の近くにあった。
そのため、長次郎と親交があり、長次郎の遊学資金を行秀が出してる。
高知は狭いですな。なんやかんやで、どっかで誰かと繋がってます。

行秀さんは、1813年筑前生まれ。
本名は豊永久兵衛なんだけど「左文字三十九代末孫」として「左行秀」と名乗る。筑前から江戸に出て、清水久義のもとで鍛刀技術を学んだのち筑前に戻って活動する。1846年に土佐藩のお抱え工となり、大方町に移り住む。その後「関田真平勝弘」という土佐藩の「御鉄道具御用兼藩工」の知遇を得て、彼の亡き後に同役を継ぐ。その時住んでたのがここ ↑ みたい。
1860年、再び江戸に出て、江戸・砂村の土佐藩邸で活動し1867年に土佐へ戻る。この頃から「東虎」と銘字した刀を打っている。「虎徹」にあこがれを持ってたから「東虎」にしたとかしないとか…。愛刀家の間ではお宝ものだそうだ。1870年頃に刀鍛冶を引退したようで、1887年に75歳で没する。墓所は
ちなみに、これ ↓ は、刀名鑑みたいなのに載ってる行秀さんの刀。
約3000人の刀匠の中で写真が掲載されるのは、よほどの名刀匠だという証拠です。

ちなみに鍛冶場はここではなく、現・喫茶さいたにやの北西辺り・近藤長次郎の家の近くにあった。
そのため、長次郎と親交があり、長次郎の遊学資金を行秀が出してる。
高知は狭いですな。なんやかんやで、どっかで誰かと繋がってます。
土佐の偉人







