今回の
土佐の偉人
は、中村 重遠(なかむら しげとお)さん。
廃城令による姫路城の解体を阻止した人で、今、世界遺産・姫路城が存在しているのはこの人のおかげなんです。 さて、そんな重遠さんって、一体どんな人なんでしょ?
重遠さんは、1840年12月25日、宿毛村(現・宿毛市)に、大庄屋・小野弥源次義為の次男として生まれたそうな。のち中村儀平の養子となって中村姓になる。
成人してからは、土佐藩主代理として宿毛を統治していた伊賀氏理の家臣となり、伊賀が開校した宿毛文館(後に日新館に名称変更)で教鞭をとる。
1868年、鳥羽伏見の戦が起ると、朝廷から土佐藩に対して「徳川方についた松山藩と高松藩を討伐せよ」との朝命が下り、重遠さんも松山城攻略に参加することになった。だが、先遣隊が降伏するよう説得していたため、重遠さんが松山に着いた時には両藩とも降伏しており、重遠さんは無事 松山城に入城できた。
松山城攻略の任を終えた重遠さんは土佐へ帰還するのだが、丁度そのころ土佐藩は、徳川方についていた東北地方の諸藩も討伐するため東征軍を編成し、すでに進軍させていた。この事を知った重遠さんは、東征軍に宿毛の兵が参加していない事に気付き、すぐさま宿毛に帰って林有造等に「宿毛兵も東征軍に参加させるべきだ」と説いた。林は土佐藩へ参加の許可を打診するが、許可が下りなかったため、やむを得ず土佐を脱走し、すでに進軍していた東征軍司令官を説得して無理やり参加するという計画をたてた。この計画の下、東征軍へ派遣する部隊を日新館の生徒で編成することにした。
重遠さんは軍監となって部隊編制に着手する。隊員数は100名以上となり、その中には小野梓「【土佐の偉人�A】小野梓:早稲田大学の真の設立者」なども加わっていた。部隊編成が完了し進発準備が整った頃、土佐藩から出陣許可が下りたため堂々と出陣し、河内にて東征軍と合流する。その後、京都御所で錦の御旗と機勢隊の隊号を頂き、進軍を再開する。
東征軍は、新潟→新発田→黒川と移動し、途中で分れて1隊は米沢方面に向い、他の1隊は荘内方面へ向った。機勢隊は荘内方面へ進軍し関川を占領。関川は荘内南方の要地だったため何度も再奪取の攻撃を受けたが、いずれも撃退し功績をあげた。(↓ 重遠さん達が入城した松山城)

新政府が誕生すると兵部省7等に出仕し、兵部省が陸軍になると少佐に任官。1873年、熊本鎮台参謀長心得に任命されて熊本に赴任し、谷干城「【土佐の偉人�J】谷干城:熊本城籠城戦」の部下となる。
1874年、江藤新平が佐賀の乱を起こすと、干城さんの命により、重遠さんは兵を率いてこれを平定。西南の役では別動第2旅団の参謀となり、肥後に薩摩にと奮戦した。これら功によって勲四等に叙せられ、年金180円を賜わっている。
このように、倒幕・明治維新に軍事面で貢献した重遠さんですが、実は文化面でもこの国に貢献しています。それが姫路城と名古屋城の保存です。
1873年に廃城令が出された。
廃城例は、日本古来の城閣を、国内での内乱を防ぐため、また欧米式の要塞よりも価値が低いと見られたため、軍用施設に転用される以外の全ての城を順次解体or競売するというもので、毎年、全国で城が解体されていました。その業務を担当していたのが陸軍第4局という部署なのですが、重遠さんは1873年に同局課長に就任。1877年には次長に就任します。
そして理由は分からないが、1878年に陸軍卿・山縣有朋に、姫路城と名古屋城の解体中止・保存を太政官に上申するよう依頼するのです。
◆姫路城の保存
姫路城は廃城令発布以降、競売にかけられ、城下に住む金物商に城の瓦を売るのを目的に23円50銭(現在の貨幣価値で約10万円)で落札されます。ですが、サイズが一般家屋に合わないとか解体費用が捻出できないとかでほったらかしにされ、権利もいつのも間にやら消滅し陸軍所有となります。
1874年、歩兵第10連隊が三の丸に駐屯することになり、営舎や練兵場建設のため、三の丸内にある多くの建物が取り壊されました。そして、本丸や二の丸にある建物等は、修理することなく放置していたため日に日に荒廃し、天守閣もくずれ落ちる危険が出てきました。
そんな折、重遠さんが山縣に姫路城の保存を懇願します。1879年に陸軍の費用で修理されることが決定しますが、肝心の予算はなかなか下りず、やっと下りた保存費は要求額の半分にも満たないものでした。保存費で応急修理を施したものの荒廃が止らなかったため、地元有志達が衆議院へ赴き、国による保存を陳情します。その結果、国による「明治の大修理」が行われ、現在に至る事になります。
◆名古屋城の保存
明治維新後、尾張14代藩主の徳川慶勝は、新政府に名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出ました。1871年、名古屋城の取り壊しが決まり、献上するため金鯱が地上に降ろされます。
1872年、東京鎮台第三分営(翌年、名古屋鎮台に改定)が二ノ丸と三ノ丸に駐屯することになり、本部として使用する御殿以外の構造物は全て解体する事になりました。
しかし、ドイツ公使ブラントと重遠さんの懇願により城郭の保存が決定され、解体直前だった天守閣等の建物は保存されることになりました。そして1879年には、金鯱が再度天守閣に揚げられます。1893年、本丸は陸軍省から宮内省に移管され名古屋離宮となり、本格的な保存が行われます。
このように両城は、重遠さんの保存依頼をきっかけに、本格的な保存活動が進みました。名古屋城は戦災で焼失したものの、姫路城は現在まで残り世界遺産になっています。姫路城・菱の門裏には、重遠さんの保存活動を称える石碑が建っています。(↓ 姫路城と菱の門裏にある重遠さんを称える碑)


ところで、ここで疑問が生じます。それは「なぜ重遠さんは、城を保存しようと思ったのか?」ということです。1873年の課長就任時には何も言ってないのに、1877年の同局次長に就任すると急に保存話を出しています。この5年間に、重遠さんの考えを変える何かがあったのでしょうか?
個人的には、次長就任直前に参加した熊本城籠城戦がヒントになると思います。重遠さんは、谷干城の部下として西南戦争「熊本城籠城戦」に参加しており、その際に日本古来の城閣の防御力の高さを肌で体感してるんです。
当時、欧米から取り入れられた最新の軍事知識では、函館五稜郭のような要塞が最も防御力が高いとされていましたが、熊本城での戦闘経験から、日本古来の城閣も再検討してみる価値があると考え、大規模城郭は残そうとしたのではないかと思います。あくまで個人的な見解ですが…。
世界遺産・姫路城の保存を訴え、倒幕・明治維新の戦闘で活躍した重遠さんですが、1884年2月22日、東京で病死します。45才でした。遺骸は盛大な葬送により東京青山墓地に埋葬され、墓碑のかたわらには巨大な記念碑が建てられました。記念碑には、山縣有朋筆「金鉄其腸」の篆額と、谷干城撰の重遠さんを称える碑文が刻まれていています。
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土佐の偉人
は、中村 重遠(なかむら しげとお)さん。廃城令による姫路城の解体を阻止した人で、今、世界遺産・姫路城が存在しているのはこの人のおかげなんです。 さて、そんな重遠さんって、一体どんな人なんでしょ?
重遠さんは、1840年12月25日、宿毛村(現・宿毛市)に、大庄屋・小野弥源次義為の次男として生まれたそうな。のち中村儀平の養子となって中村姓になる。
成人してからは、土佐藩主代理として宿毛を統治していた伊賀氏理の家臣となり、伊賀が開校した宿毛文館(後に日新館に名称変更)で教鞭をとる。
1868年、鳥羽伏見の戦が起ると、朝廷から土佐藩に対して「徳川方についた松山藩と高松藩を討伐せよ」との朝命が下り、重遠さんも松山城攻略に参加することになった。だが、先遣隊が降伏するよう説得していたため、重遠さんが松山に着いた時には両藩とも降伏しており、重遠さんは無事 松山城に入城できた。
松山城攻略の任を終えた重遠さんは土佐へ帰還するのだが、丁度そのころ土佐藩は、徳川方についていた東北地方の諸藩も討伐するため東征軍を編成し、すでに進軍させていた。この事を知った重遠さんは、東征軍に宿毛の兵が参加していない事に気付き、すぐさま宿毛に帰って林有造等に「宿毛兵も東征軍に参加させるべきだ」と説いた。林は土佐藩へ参加の許可を打診するが、許可が下りなかったため、やむを得ず土佐を脱走し、すでに進軍していた東征軍司令官を説得して無理やり参加するという計画をたてた。この計画の下、東征軍へ派遣する部隊を日新館の生徒で編成することにした。
重遠さんは軍監となって部隊編制に着手する。隊員数は100名以上となり、その中には小野梓「【土佐の偉人�A】小野梓:早稲田大学の真の設立者」なども加わっていた。部隊編成が完了し進発準備が整った頃、土佐藩から出陣許可が下りたため堂々と出陣し、河内にて東征軍と合流する。その後、京都御所で錦の御旗と機勢隊の隊号を頂き、進軍を再開する。
東征軍は、新潟→新発田→黒川と移動し、途中で分れて1隊は米沢方面に向い、他の1隊は荘内方面へ向った。機勢隊は荘内方面へ進軍し関川を占領。関川は荘内南方の要地だったため何度も再奪取の攻撃を受けたが、いずれも撃退し功績をあげた。(↓ 重遠さん達が入城した松山城)

新政府が誕生すると兵部省7等に出仕し、兵部省が陸軍になると少佐に任官。1873年、熊本鎮台参謀長心得に任命されて熊本に赴任し、谷干城「【土佐の偉人�J】谷干城:熊本城籠城戦」の部下となる。
1874年、江藤新平が佐賀の乱を起こすと、干城さんの命により、重遠さんは兵を率いてこれを平定。西南の役では別動第2旅団の参謀となり、肥後に薩摩にと奮戦した。これら功によって勲四等に叙せられ、年金180円を賜わっている。
このように、倒幕・明治維新に軍事面で貢献した重遠さんですが、実は文化面でもこの国に貢献しています。それが姫路城と名古屋城の保存です。
1873年に廃城令が出された。
廃城例は、日本古来の城閣を、国内での内乱を防ぐため、また欧米式の要塞よりも価値が低いと見られたため、軍用施設に転用される以外の全ての城を順次解体or競売するというもので、毎年、全国で城が解体されていました。その業務を担当していたのが陸軍第4局という部署なのですが、重遠さんは1873年に同局課長に就任。1877年には次長に就任します。
そして理由は分からないが、1878年に陸軍卿・山縣有朋に、姫路城と名古屋城の解体中止・保存を太政官に上申するよう依頼するのです。
◆姫路城の保存
姫路城は廃城令発布以降、競売にかけられ、城下に住む金物商に城の瓦を売るのを目的に23円50銭(現在の貨幣価値で約10万円)で落札されます。ですが、サイズが一般家屋に合わないとか解体費用が捻出できないとかでほったらかしにされ、権利もいつのも間にやら消滅し陸軍所有となります。
1874年、歩兵第10連隊が三の丸に駐屯することになり、営舎や練兵場建設のため、三の丸内にある多くの建物が取り壊されました。そして、本丸や二の丸にある建物等は、修理することなく放置していたため日に日に荒廃し、天守閣もくずれ落ちる危険が出てきました。
そんな折、重遠さんが山縣に姫路城の保存を懇願します。1879年に陸軍の費用で修理されることが決定しますが、肝心の予算はなかなか下りず、やっと下りた保存費は要求額の半分にも満たないものでした。保存費で応急修理を施したものの荒廃が止らなかったため、地元有志達が衆議院へ赴き、国による保存を陳情します。その結果、国による「明治の大修理」が行われ、現在に至る事になります。
◆名古屋城の保存
明治維新後、尾張14代藩主の徳川慶勝は、新政府に名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出ました。1871年、名古屋城の取り壊しが決まり、献上するため金鯱が地上に降ろされます。
1872年、東京鎮台第三分営(翌年、名古屋鎮台に改定)が二ノ丸と三ノ丸に駐屯することになり、本部として使用する御殿以外の構造物は全て解体する事になりました。
しかし、ドイツ公使ブラントと重遠さんの懇願により城郭の保存が決定され、解体直前だった天守閣等の建物は保存されることになりました。そして1879年には、金鯱が再度天守閣に揚げられます。1893年、本丸は陸軍省から宮内省に移管され名古屋離宮となり、本格的な保存が行われます。
このように両城は、重遠さんの保存依頼をきっかけに、本格的な保存活動が進みました。名古屋城は戦災で焼失したものの、姫路城は現在まで残り世界遺産になっています。姫路城・菱の門裏には、重遠さんの保存活動を称える石碑が建っています。(↓ 姫路城と菱の門裏にある重遠さんを称える碑)


ところで、ここで疑問が生じます。それは「なぜ重遠さんは、城を保存しようと思ったのか?」ということです。1873年の課長就任時には何も言ってないのに、1877年の同局次長に就任すると急に保存話を出しています。この5年間に、重遠さんの考えを変える何かがあったのでしょうか?
個人的には、次長就任直前に参加した熊本城籠城戦がヒントになると思います。重遠さんは、谷干城の部下として西南戦争「熊本城籠城戦」に参加しており、その際に日本古来の城閣の防御力の高さを肌で体感してるんです。
当時、欧米から取り入れられた最新の軍事知識では、函館五稜郭のような要塞が最も防御力が高いとされていましたが、熊本城での戦闘経験から、日本古来の城閣も再検討してみる価値があると考え、大規模城郭は残そうとしたのではないかと思います。あくまで個人的な見解ですが…。
世界遺産・姫路城の保存を訴え、倒幕・明治維新の戦闘で活躍した重遠さんですが、1884年2月22日、東京で病死します。45才でした。遺骸は盛大な葬送により東京青山墓地に埋葬され、墓碑のかたわらには巨大な記念碑が建てられました。記念碑には、山縣有朋筆「金鉄其腸」の篆額と、谷干城撰の重遠さんを称える碑文が刻まれていています。
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