2009年10月

今回の土佐の偉人は、中村 重遠(なかむら しげとお)さん。

廃城令による姫路城の解体を阻止した人で、今、世界遺産・姫路城が存在しているのはこの人のおかげなんです。 さて、そんな重遠さんって、一体どんな人なんでしょ?




重遠さんは、1840年12月25日、宿毛村(現・宿毛市)に、大庄屋・小野弥源次義為の次男として生まれたそうな。のち中村儀平の養子となって中村姓になる。
成人してからは、土佐藩主代理として宿毛を統治していた伊賀氏理の家臣となり、伊賀が開校した宿毛文館(後に日新館に名称変更)で教鞭をとる。
1868年、鳥羽伏見の戦が起ると、朝廷から土佐藩に対して「徳川方についた松山藩と高松藩を討伐せよ」との朝命が下り、重遠さんも松山城攻略に参加することになった。だが、先遣隊が降伏するよう説得していたため、重遠さんが松山に着いた時には両藩とも降伏しており、重遠さんは無事 松山城に入城できた。

松山城攻略の任を終えた重遠さんは土佐へ帰還するのだが、丁度そのころ土佐藩は、徳川方についていた東北地方の諸藩も討伐するため東征軍を編成し、すでに進軍させていた。この事を知った重遠さんは、東征軍に宿毛の兵が参加していない事に気付き、すぐさま宿毛に帰って林有造等に「宿毛兵も東征軍に参加させるべきだ」と説いた。林は土佐藩へ参加の許可を打診するが、許可が下りなかったため、やむを得ず土佐を脱走し、すでに進軍していた東征軍司令官を説得して無理やり参加するという計画をたてた。この計画の下、東征軍へ派遣する部隊を日新館の生徒で編成することにした。
重遠さんは軍監となって部隊編制に着手する。隊員数は100名以上となり、その中には小野梓「【土佐の偉人�A】小野梓:早稲田大学の真の設立者」なども加わっていた。部隊編成が完了し進発準備が整った頃、土佐藩から出陣許可が下りたため堂々と出陣し、河内にて東征軍と合流する。その後、京都御所で錦の御旗と機勢隊の隊号を頂き、進軍を再開する。
東征軍は、新潟→新発田→黒川と移動し、途中で分れて1隊は米沢方面に向い、他の1隊は荘内方面へ向った。機勢隊は荘内方面へ進軍し関川を占領。関川は荘内南方の要地だったため何度も再奪取の攻撃を受けたが、いずれも撃退し功績をあげた。(↓ 重遠さん達が入城した松山城)

新政府が誕生すると兵部省7等に出仕し、兵部省が陸軍になると少佐に任官。1873年、熊本鎮台参謀長心得に任命されて熊本に赴任し、谷干城「【土佐の偉人�J】谷干城:熊本城籠城戦」の部下となる。
1874年、江藤新平が佐賀の乱を起こすと、干城さんの命により、重遠さんは兵を率いてこれを平定。西南の役では別動第2旅団の参謀となり、肥後に薩摩にと奮戦した。これら功によって勲四等に叙せられ、年金180円を賜わっている。
このように、倒幕・明治維新に軍事面で貢献した重遠さんですが、実は文化面でもこの国に貢献しています。それが姫路城と名古屋城の保存です。




1873年に廃城令が出された。
廃城例は、日本古来の城閣を、国内での内乱を防ぐため、また欧米式の要塞よりも価値が低いと見られたため、軍用施設に転用される以外の全ての城を順次解体or競売するというもので、毎年、全国で城が解体されていました。その業務を担当していたのが陸軍第4局という部署なのですが、重遠さんは1873年に同局課長に就任。1877年には次長に就任します。
そして理由は分からないが、1878年に陸軍卿・山縣有朋に、姫路城と名古屋城の解体中止・保存を太政官に上申するよう依頼するのです。
◆姫路城の保存
姫路城は廃城令発布以降、競売にかけられ、城下に住む金物商に城の瓦を売るのを目的に23円50銭(現在の貨幣価値で約10万円)で落札されます。ですが、サイズが一般家屋に合わないとか解体費用が捻出できないとかでほったらかしにされ、権利もいつのも間にやら消滅し陸軍所有となります。
1874年、歩兵第10連隊が三の丸に駐屯することになり、営舎や練兵場建設のため、三の丸内にある多くの建物が取り壊されました。そして、本丸や二の丸にある建物等は、修理することなく放置していたため日に日に荒廃し、天守閣もくずれ落ちる危険が出てきました。
そんな折、重遠さんが山縣に姫路城の保存を懇願します。1879年に陸軍の費用で修理されることが決定しますが、肝心の予算はなかなか下りず、やっと下りた保存費は要求額の半分にも満たないものでした。保存費で応急修理を施したものの荒廃が止らなかったため、地元有志達が衆議院へ赴き、国による保存を陳情します。その結果、国による「明治の大修理」が行われ、現在に至る事になります。
◆名古屋城の保存
明治維新後、尾張14代藩主の徳川慶勝は、新政府に名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出ました。1871年、名古屋城の取り壊しが決まり、献上するため金鯱が地上に降ろされます。
1872年、東京鎮台第三分営(翌年、名古屋鎮台に改定)が二ノ丸と三ノ丸に駐屯することになり、本部として使用する御殿以外の構造物は全て解体する事になりました。
しかし、ドイツ公使ブラントと重遠さんの懇願により城郭の保存が決定され、解体直前だった天守閣等の建物は保存されることになりました。そして1879年には、金鯱が再度天守閣に揚げられます。1893年、本丸は陸軍省から宮内省に移管され名古屋離宮となり、本格的な保存が行われます。

このように両城は、重遠さんの保存依頼をきっかけに、本格的な保存活動が進みました。名古屋城は戦災で焼失したものの、姫路城は現在まで残り世界遺産になっています。姫路城・菱の門裏には、重遠さんの保存活動を称える石碑が建っています。(↓ 姫路城と菱の門裏にある重遠さんを称える碑)


ところで、ここで疑問が生じます。それは「なぜ重遠さんは、城を保存しようと思ったのか?」ということです。1873年の課長就任時には何も言ってないのに、1877年の同局次長に就任すると急に保存話を出しています。この5年間に、重遠さんの考えを変える何かがあったのでしょうか?
個人的には、次長就任直前に参加した熊本城籠城戦がヒントになると思います。重遠さんは、谷干城の部下として西南戦争「熊本城籠城戦」に参加しており、その際に日本古来の城閣の防御力の高さを肌で体感してるんです。
当時、欧米から取り入れられた最新の軍事知識では、函館五稜郭のような要塞が最も防御力が高いとされていましたが、熊本城での戦闘経験から、日本古来の城閣も再検討してみる価値があると考え、大規模城郭は残そうとしたのではないかと思います。あくまで個人的な見解ですが…。




世界遺産・姫路城の保存を訴え、倒幕・明治維新の戦闘で活躍した重遠さんですが、1884年2月22日、東京で病死します。45才でした。遺骸は盛大な葬送により東京青山墓地に埋葬され、墓碑のかたわらには巨大な記念碑が建てられました。記念碑には、山縣有朋筆「金鉄其腸」の篆額と、谷干城撰の重遠さんを称える碑文が刻まれていています。


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今回の土佐の偉人は、谷干城(たに たてき)さん。

西南戦争の「熊本城籠城戦」における政府軍の司令官です。徴兵令で寄せ集められた約4000名の素人を率いて、名将・西郷隆盛率いる百戦錬磨の武士14000名と戦い、救援が来るまでの52日間の籠城を耐え抜いた人です。また、第2代・学習院院長、初代・農商務大臣でもあります。

結構有名な人だろうからカテ趣旨から外れるかもだけど、まあ今回は念のためにね。ご紹介をば。
さてさて、話を戻して、干城さんって一体どんな人なんでしょ?




干城さんは、1837年3月18日、窪川(現・四万十町)に、儒学者・谷万七の第4子として生まれたそうな。9歳のとき父が土佐藩士として召抱えられたのをきっかけに高知城下に移り住み、さらに1859年、江戸へ遊学に出て安井息軒などの弟子・従者となって学びます。遊学を終え、江戸から土佐へ帰る途中、当時 薩長と連携して攘夷を画策していた武市瑞山と大阪で会談し、一時 尊王攘夷運動に感化されます。
しかし1866年、藩命で長崎→上海を視察するのですが、この時、尊王攘夷から倒幕へと傾倒します。と言うのも、当時の上海は租借地として欧米に半植民地化されており 清人(中国人)が欧米の言いなりになっているという現状を知ったからで、干城さんは「尊王攘夷なんかしている場合ではない。一刻も早くこの国を近代化させ強国にしなければ、日本は清のように欧米に支配されてしまう!」と倒幕へ傾倒したのです。
1867年に帰国した干城さんは、さっそく江戸に出て、中岡慎太郎が進めていた薩土同盟の締結を支援し、板垣退助・西郷隆盛・小松帯刀の会談を実現させ討幕運動の一助を担います。

干城さんは、討幕運動の主役クラスではなかったものの、明治維新が成功した翌年の戊辰戦争以降に大活躍します。まず、新政府軍の大軍監として北関東・会津戦線で活躍し、1870年には藩少参事として土佐藩の改革に尽力します。廃藩置県後は、兵部権大丞として陸軍に任官し1872年 陸軍少将になり、翌年には熊本鎮台司令官に就任します。
1874年、九州で不平士族の反乱が相継いで起きたため、軍上層部は干城さんの任を解き軍司令官に転任させ、各所の反乱を鎮圧するよう命じます。干城さんは、一度は「時期尚早。もう少し話し合うべき」と拒否したものの、同郷の佐賀県権令・岩村高俊(現・高知県宿毛市出身)に説得され、佐賀の乱・神風連の乱、を鎮圧します。その後、反乱士族が熊本城を奪取すると予測した軍上層部は、1876年、干城さんを再び熊本鎮台司令官に任命します(この理由として干城さんが、尊王の起源となった土佐南学の大学者・谷秦山「谷秦山の邸宅跡と墓」の家系に列なるため「谷垣守・真潮の邸宅跡」、政府軍を裏切らないと期待されたことがある)。

1877年、西南戦争が勃発し、予想通りに西郷隆盛率いる反乱軍が熊本に迫りました。西郷隆盛といえば、倒幕時の緒戦で数々の勝利を飾った名将中の名将。しかも、その名将に率いられた反乱軍は元武士の精鋭14000名で編成されている。それに対しこちらの兵力は、徴兵令によって集められた素人4000名とわずかな士官達という兵力差。干城さんは「無駄に戦うより救援を待つのが得策」と、熊本城に籠城する事にしました(ちなみに、この時の干城さんの部下には、樺山資紀・児玉源太郎・川上操六・奥保鞏・中村重遠「【土佐の偉人�K】中村重遠:世界遺産 姫路城を守った男」など、後に大物軍人・政治家になる者達がいた)。
2月22日、反乱軍は熊本城を包囲すると共に城正面と背面を砲撃して、ついに「熊本城籠城戦」が開戦した。反乱軍は政府軍の糧食が尽きるのを待つと共に、反復的な砲撃を加え政府軍の疲労を誘いました。この攻撃は約20日続きました。
3月12日、城の西端の先にある小丘「段山(だにやま)」をめぐって両軍の争奪戦が起こります。段山は熊本城の急所で、ここを奪われると熊本城攻略も容易になることから、砲撃・銃撃を混じえた激しい攻防戦が繰り広げられました。戦闘は翌13日まで続き、当日は濃霧の中での白兵戦が展開されました。白兵戦の結果、午後3時頃に反乱軍が退却し、段山の争奪戦は終了します。この後、反乱軍の主力が北方に転戦したため熊本城の包囲が困難になり、政府軍はその隙を縫って糧食を城内に運び入れるようになります。
3月26日、包囲が困難になった反乱軍は、周囲にある河川の堤防を決壊させ、城を水攻めにしました。これにより反乱軍は、城の東北及び西部の兵による包囲を無用化させたが、それは政府軍にも城西部の防御の無用化に繋りました。
3月27日、反乱軍主力の北進を契機に、この日から政府軍は攻勢に出ます。まずこの日は、威力偵察に数回出撃します。
4月8日、糧食・弾薬が欠乏してきたため、余力があるうちに援軍と連絡を取ろうと攻撃。連絡は取れなかったものの、反乱軍の混乱にじょうじて兵糧720俵・小銃100挺などを奪います。
4月14日、午後4時に、干城さん率いる政府軍が待ちに待った援軍が、黒田清隆中将に率いられ熊本城下にある山崎錬兵場に到着。
4月15日、黒田軍は反乱軍の包囲を突破して熊本城に入城。黒田軍が入城すると、反乱軍は白川以南へ包囲を解き撤退。ここに52日間にわたって繰り広げられた「熊本城籠城戦」は終結を迎えました。

干城さんは戦後、名将中の名将・西郷隆盛の攻撃を防いだ事を絶賛され、一躍名を馳せました。そして、この戦功により中将へ昇進し、陸軍士官学校校長や中部監軍部長などを歴任します。
1884年に第2代・学習院長に就任。翌年、第1次伊藤内閣で、初代・農商務相に就任。欧州視察後、外相井上馨の条約改正案と欧化主義に反対して1887年に大臣を辞職。この頃、陸軍主流派の山県有朋らと対立して陸軍を去って高知に戻り、1890年に貴族院子爵議員となる。三浦梧楼らと中正党を結成して地租増徴に反対するなど、国粋主義・農本主義的立場から、薩長藩閥でも自由民権派でもない中正主義を貫きます。(↓ 干城さんが晩年を過ごした高知市内にある邸宅跡)


また、60歳を過ぎてからは、政治家としての活動の傍ら、坂本竜馬・中岡慎太郎を殺害した犯人を独自に再調査します。
実は干城さんは、1867年の近江屋事件で龍馬が暗殺された時には真っ先に現場に駆けつけており、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から「犯人は新撰組のようだ」と聞いていたんです(その事もあってか、干城さん自身が新撰組局長・近藤勇を、斬首・獄門の刑に処している)。
それなのに1900年、元見廻組の一人であった今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」という旨の手記を雑誌に掲載したのを見て、事件の真相を明らかにしようと再調査したんです。ですが、干城さんは「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と今井に言ったそうで、干城さんは今井とは別の者を探したようです。

竜馬暗殺の真犯人を探していた干城さんでしたが、真相は分からずじまいのまま、1911年5月13日、75歳で亡くなります。最終官位は陸軍中将正二位勲一等子爵でした。墓所は、邸宅跡を少し上った丘にあります。(↓ 邸宅および墓所の場所を示す碑)


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デルタ7ってゆうとこが造ってるみたいなんだけど、マジでこんなん↓を造ってるみたい。すごいっす。
乗り心地は良さそう…ってか、良すぎて怖いかも!

詳細は、http://delta7sports.com/arantix-mountain-bike.htm を見てね。



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