今回の土佐の偉人は、河野敏鎌(こうの とがま)さん。

文部卿として、今日まで続く日本の教育制度の根幹を築いた人です。
また、大久保利通に買収され、元上司・江藤新平「江藤新平の遭厄地碑」を違法に斬首したという悪評で有名らしく、今回はカテ趣旨から外れるけど「敏鎌さんは本当に大久保に買収されたのか」そして「本当に違法に斬首したのか」を考察してみます。その前にいつもの如く、敏鎌さんの生い立ちをば。


敏鎌さんは1844年10月、高知市に、河野通好の長男として生まれたそうな。
幼い時は河野万寿弥という名で育ち、14歳のときに江戸へ遊学。江戸では安井息軒の三計塾に入り、同期となった陸奥宗光や、翌年に入塾する同郷の谷干城などと共に「儒学」を学びます。敏鎌さんの学んだ儒学とは「上下秩序の区別を唱え、上に立つ者は徳による王道で天下を治めて、それを支える者達は五常(仁・義・礼・智・信)を実践するべき」という思想で、分かりやすく言うと「王に相応しい人とそれ以外の人とは決定的に違うので、徳を持つ人が王になり、それ以外の人は誠心誠意王に尽くして支えるのが理想的だ」という思想。日本では王=天皇なので「天皇のためにがんばりましょー」ってゆう思想になりますね。敏鎌さんは、そんな儒学をみっちりと学んだのです。
1861年、その儒学を学び終えた敏鎌さんは土佐に帰高。土佐に帰高した敏鎌さんは「天皇のためにがんばりましょー」の思想を持ってたから当然、武市瑞山率いる土佐勤王党に入党し尊王攘夷活動を始めます。ですが、その頃の土佐は佐幕思想が主流だったため、尊王攘夷活動がなかなか前進しませんでした。そこで土佐勤王党は、佐幕派の中心人物であり土佐藩政を掌握していた家老・吉田東洋を暗殺し、藩政を掌握。これを契機に土佐では尊王攘夷派が活発になり、これを全国にも広めるため藩主・山内豊範を入京させ「土佐は藩を挙げて尊王攘夷を行う!」という態度を全国へアピールさせました(この藩主入京は「五十人組」により行われたのですが、敏鎌さんは同組入りそれを行いました)。「土佐は藩をあげて尊王攘夷を行う!」という話が全国に流れると、これをきっかけに全国でも尊王攘夷運動が活発になって、日本は天皇中心の国へと生まれ変わりかけました。敏鎌さんは「やっと、念願の、天皇を中心とした国が実現される。もう少しの努力だ!」と思った事でしょう。
しかし、八月十八日の政変をきっかけに、元々は佐幕派だった山内容堂が裏切り頓挫。土佐勤王党は弾圧され、敏鎌さんも捕縛されます。そして敏鎌さんは、東洋の弟子であり容堂の部下である板垣退助・後藤象二郎らに連日連夜の拷問を受け、永牢される事になりました。ですが明治維新後、罪を免ぜられ約6年間の投獄から解かれると、後藤象二郎に大阪に連れて行かれ、江藤新平の部下になります。
1874年、佐賀の乱が勃発すると、その頃 司法大検事になっていた敏鎌さんは、実質的に政府軍最高司令官だった大久保利通によばれ九州へ赴任。反乱軍の裁判をするよう命ぜられます。裁判は、大久保に金1000円の賄賂をもらい、かつての上司であった江藤に対して峻厳極まりない取り調べを行って、答弁の機会も十分に与えないまま違法に斬首にしたそうです。その後、1875年に元老院議官、1878年に元老院副議長になります。
1880年には文部卿に就任。教育令改正の推進者となり、今日まで続く日本の教育制度の基礎を築きます。ちなみに、後の文部大臣はみな敏鎌さんの方針を踏襲しました。
1881年には農商務省設立に伴い初代農商務卿に就任。しかし「明治14年の政変」によって大隈重信らと下野し、翌年に大隈らと立憲改進党を結成、副総理になる。1888年、枢密顧問官となって憲法審議にあたり、1891年には第一次松方正義内閣で内務大臣・司法大臣・農商務大臣を、第2次伊藤博文内閣では文部大臣を歴任し、1893年には子爵を拝命します。ですが1895年4月20日に他界。享年52歳。青山墓地に眠ります。



では、今回のテーマ「敏鎌さんは本当に金に目がくらんで買収され、江藤を違法に斬首したのか」を考察してみましょう。そのためにまず「敏鎌さんとはどんな人だったのか」を様々なエピソードから推測してみます。
◆尊王志士時代
敏鎌さんは幼少時から儒学を学んでおり、そのため「天皇を中心に国はまとまるべき」という尊王思想を持っていました。そして成年してからは、その思想を実現するため土佐勤王党に入り活動しました。
ここで注目したいのが、彼の入った『土佐勤王党』という組織です。当時、尊王攘夷運動は、土佐以外では個人的な活動に留まっていましたが、土佐では個々の活動家を土佐勤王党へ入党させ組織的に活動し、藩政掌握後には「一藩勤王」の名のもと藩レベルで組織的な活動をしていました。そして、その組織的活動の結果、全国で尊王攘夷運動が活発になりました。
なのに、容堂が裏切ったため組織が内部崩壊し、自身は投獄され、自分の手による思想の実現も不可能になりました。この「組織の内部崩壊により思想の実現を妨げられた」という経験から、敏鎌さんは「思想の実現のためには、人々が一つにまとまるよう組織化する必要があり」そのためには「強く統制しなければならない」と強く思うようになって、これが彼の信条になったのではないかと考えます。そしてそう思わせる片鱗を、文部卿時代に見せています。
◆文部卿時代
1880年、敏鎌さんは文部卿になります。同年、佐々木高行による民情視察が行われ、その結果「国民は新政府に悦服しておらず、かつ自由民権運動が隆盛をきわめていたため、反政府の機運が高まっている」という事が分かりました。
それを知った敏鎌さんは、ある報告書を作成します。その内容は「欧米列国では国家に対する人民の忠誠心ははなはだ厚い。それは各国政府が『干渉教育』を制度化して教育しているからだ。国家が人民教育に責任をもって干渉しなければ、いずれ国は滅ぼるに至る」というもの。つまり「国民は国家(=天皇)のために一つにまとまらなければならない。そのためには教育により統制する必要がある」というものです。この直後に敏鎌さんは、小学校教科書調査を行い、不適当と判断したものは使用を禁止。教育令を改正して「修身」を筆頭教科にすえると共に、教育内容に国家基準を定めて、教員は国家が定めた教育だけをするよう統制し組織化します。
このように、国家という組織の一員である国民が後々国家転覆を企てないよう、教育制度という手段でもって国(=天皇)と政府に尽くすように教育し統制するのは、まさに先程見た「天皇を中心とする国造りのために、それを妨げる組織の内部崩壊を防ぐよう、人々を強固に統制し一致団結させ組織化する」という信条と一致します。
以上から、やはり敏鎌さんという人は「天皇を中心とする国造りのために、それを妨げる組織の内部崩壊を防ぐよう、人々を強固に統制し一致団結させ組織化する」という信条を持った人だったと言えるのではないでしょうか。そしてこの信条を、敏鎌さんが江藤を斬首した状況に当てはめて見ると、その信条の存在が、江藤を斬首した理由にヒントを与えると思います。



「敏鎌さんは、江藤を違法に斬首したのか?」
◆江藤の施策vs敏鎌の信条
江藤新平とは、急進的な民権論者で、民衆による行政訴訟を認めたり、全国の民衆がいつでも訴訟を起こせるよう各県への裁判所設置を進めた人です。また、行政権=司法権と考えていた日本に三権分立の導入も進めました。ですが、それら施策の導入は、国の統制力を削ぐことになるので保守勢力からは非難され、また、性急な裁判所網整備は多大な財政負担を強い、政府内に軋轢をまねきました。
ここで気付くのは、江藤のやった各種施策が、敏鎌さんの信条と対立していることです。これまで見てきた通り敏鎌さんは「天皇を中心とする国造りのために、それを妨げる組織の内部崩壊を防ぐよう、人々を強固に統制して組織化し一致団結させる」という信条を持つ人でしたが、そんな人にとって江藤の進める民権や三権分立の確立は、国民の統制を困難にし、かつその推進に伴って発生した政府内の軋轢は国をバラバラにして弱体化させると映ったでしょう。さらに、江藤は征韓論争を起こし、国を征韓論者と非征韓論者とに引き裂き国政を混乱に陥れ、後には佐賀の乱を起こし一層の混乱を招きました。そんな江藤は敏鎌さんにとって「この国を混乱させ国の一致団結を邪魔し、弱体化させる国賊!」であり「後の憂いを除くためにも、さっさと始末すべき存在」だったはずです。それゆえ佐賀の乱の裁判時に敏鎌さんは「江藤をさっさと始末したい」と考えても不思議じゃありません。では、なぜ違法である斬首を強行したのでしょうか。
◆大久保から指示を受けた?
敏鎌さんが大久保に買収されたと考える人達は、その根拠として「敏鎌は、当時は違法行為であった斬首刑を強行したのに、その罪で敏鎌は何の咎も受けていない。ということは、敏鎌の罪をもみ消せる程の権力を持った者がおり、そいつが敏鎌をかばったはずだ。それは誰かを考えると、江藤達の政敵であり、佐賀の乱を鎮圧した大久保利通が怪しく、大久保が敏鎌を買収し斬首の指示をしたと考えれば全ての話が通る」という話をだします。ですが、そもそも斬首は違法だったのでしょうか?
敏鎌さんが江藤を斬首刑に処したのは、佐賀の乱のあった1874年です。その頃の法律をよく確認してみると、実は斬首刑は禁止されておらず、禁止になったのは1882年1月1日に施行された旧刑法以降でした。つまり、敏鎌さんは違法な斬首はしておらず、自身の判断で斬首刑を求刑したと考えられ、それゆえ大久保買収説の根拠が怪しくなり、大久保に買収されて斬首を求刑したとは考えにくくないでしょうか。
また「恩人である江藤を敏鎌が斬首するわけがない」という指摘もありますが、それも疑わしいのです。というのも、江藤が敏鎌さんの恩人であるというのは「敏鎌が江藤の部下になったから」という話を根拠にしていますが、そもそも敏鎌さんが江藤の部下になったのは、敏鎌さんの政敵であった後藤が罪人の敏鎌さんを江藤に引き渡したからであり、言うなれば奴隷として売られたようなものだったでしょう。ならば江藤に対して敏鎌さんは特段の思い入れは無いだろうし、そもそも信条の異なる江藤を救おうとは思わないでしょう。そう考えると、敏鎌さんが江藤の斬首を自発的に決めるのも不思議じゃないですよね。
では、買収されたのは本当でしょうか?



「買収されたのは本当か」
◆大久保死後の敏鎌
大久保は1878年に亡くなります。普通に考えると、敏鎌さんが大久保の庇護で出世したのなら、大久保亡き後の出世は望めないはずだし、買収された事が悪評になるほど世間や政府内に広がっていたのなら一層望めないはずです。ですが、その後も出世しているし、むしろ大久保亡き後のほうが多くの要職についており出世していることから、当時は買収されたなんて話は出回ってなかったと考えられます。
◆買収話の出所
では、どこから買収話がでてきたのでしょうか?そもそもこの買収話は、司馬遼太郎作の江藤新平を主人公とした物語「歳月」に記載された「敏鎌は大久保に『金1000円で江藤を死刑にせよ』と依頼された」という記述をきっかけに広まったようです。司馬と言えば「坂の上の雲」の島村と秋山に関するフィクション「【土佐の偉人�D】島村速雄:日本海海戦の最大の功労者 参照」がある事から、先の敏鎌の言葉も信憑性が疑われるし、むしろフィクションだったと考えたほうが話がすっきり通るのではないかと私は思います。



「まとめ」
以上をまとめると、敏鎌さんは「天皇を中心とする国造りのために、それを妨げる組織の内部崩壊を防ぐよう、人々を強固に統制し一致団結させ組織化する」という信条を持っており、その信条に反する行動を江藤がとったので斬首した。そして、その斬首は当時の法に沿ったものであり、また大久保に買収されたので斬首したのではなかった、と個人的には考えます。
今回、かなり荒く無理のある考察(考察になってないですが…)をしましたが、歴史についてもっと詳しい人がいるはずなので、今回提示した考察について、その方達のもっと突っ込んだ調査・検証を期待します。



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