2010年01月

2010年1月27日付け高知新聞の朝刊に、こんな記事↓が出てた。
満願神社が建てられてる土地は、どうやら市保有の土地らしい。

この神社、こっから先どうなるんだろうね?たしかに政教分離の観点からはNGなんだろうけど、地元住民にとっては無くてはならない守り神だという事も考慮して、無理かもしれないけど存続の方向で対応してほしいね。

そういえばこの神社って、昭和50年ごろ、この地域での道路拡張工事に伴い一度は撤去されることになっていたけど、その時に起こったある事をきっかけにホッタラカシになってたんじゃなかったっけ?

ある事ってのは、道路拡張工事のために神社にある大木を切ろうとしたら、作業員が怪我するわ、ブルドーザーが横転するわと、次々と事故が起きたってやつ。また「大木の幹を触るとトゲが刺さってまったく抜けない」や「木に触ると胸に何かのトゲが刺さるような痛みが出て、一向に直らない」といったウワサが出回り、作業員が「タタリだ」と恐れて作業を嫌がるようにもなったそうだ。このため、計画では一本の道路をドーンと整備する予定だったが、神社を避けるよう二又に分けて整備することにし、神社&大木の撤去は中止→神社は今に至るまで地元の守り神として地元住民が大事に守ってきたらしい。

もうね、何かあるんだよ、たぶん。
それに地元住民にとっては大事な場所なんでしょ?特にその土地を使う予定が無いんなら今のままでいいじゃん。大事に守ってきたんだしさ。それに仮に「撤去しなさい」って事になってなんか起きたらどうすんのよ。
ってゆーか、政教分離の観点から全ての寺社仏閣等は私有地に建てなければならないってんなら、道端にある道祖神や、お地蔵さんも撤去する必要があるんじゃない?けど出来る?今まで人々を守ってきた道祖神たちにとっては「何故にこの仕打ち!?」って思うだろうね。
(↓偶然この神社の記事を書こうと数ヶ月前に写真撮ってました。道路は右側に見える小道と神社に隠れてるけど左側とに分かれて整備された)

こうゆう話聞いてると「民法出でて忠孝滅ぶ」って言葉を思い出す。なんでもかんでも法律だからってそぐわない事やってたら次々と大事なもんなくしちゃうよ。もうね、地域に根差した、かつ金銭授受のない信仰とかは例外的に認めてあげたいね。

しっかし、どうなるんかなこの神社。どっかの神社が土地買い取って飛び地にするか、地元の人が土地を共同購入するしかないのかなぁ。



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が、この先にあるという案内碑だとずっと思ってたんだけど、よく読んでみると…。



まったく、ナイスフェイントだぜいっ!



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2010年1月25日付けの高知新聞・夕刊に、こんな↓記事が出てた。
最近の歴女は、史跡巡りや歴史勉強だけでは飽き足らず、刀剣や、さらにはそれを使う居合にも興味をもっているらしい。刀剣女子ってやつか…。


あらあら、そうだったの!?
だったら高知へいらっしゃい。
なんつったって、高知は居合の聖地なんだから。

どういうことかと言うと、明治維新の廃刀令によって全国で数多くの居合の流派が消滅したんだけど、ここ高知では廃刀令にもかかわらず、英信流という流派が谷村派(無双直伝英信流)と下村派(無雙神傳英信流)とに発展分離して秘かに伝承されてたのね。で、中山博道って人がいるんだけど、この人が高知に来て、下村派15代目・細川義昌と谷村派18代目・森本免久身とに居合を教えてもらって、両派をベースにした夢想神伝流という新流派を誕生させるんすわ。

んで、この夢想神伝流なんだけど、剣士の多くが軍人や警察官であった事もあり、軍や警察で採用されることになって存続が決定し全国に普及すんのよ。英信流も夢想神伝流の原点だってことで人気が出て全国に普及し、現在では、居合人口の約5割を夢想神伝流が占めるまで発展し、様々ある英信流も同人口の約4割を占めるまで発展してる。つまり両派で居合人口の約9割を占めるようになってんの。

現在まで居合が存続しているのは、夢想神伝流の剣士に軍人や警察官が多かった縁で軍・警察に採用されたからだった。そして、夢想神伝流は、高知で伝承された英信流をベースにして生まれたのだった。と言うことは、もし高知で英信流が伝承されてなかったら夢想神伝流は生まれず、それは居合の消滅に繋がっていたと言える。つまり、現在まで居合が存在しているのは、高知で英信流が伝承されていたからだと言える。

こう考えると、やっぱ高知は居合の聖地だと思うんだけど、どうよ?
毎年3~4月位に県立武道館で居合の試合をしてたはずだから、観光振興・武道振興のためにも、この大会をなんかに使えんかね?「神聖な武道を何と心得るか!」というお叱りは、いったん措いといてさ。


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今回の土佐の偉人は、川田小一郎(かわだ こいちろう)さん。

第3代・日銀総裁に就任した人で、その辣腕ぶりから「日銀の法王」「明治のローマ法王」と称えられた人です。また、三菱財閥の創業メンバーの一人として、三菱の発展を陰で表で支えた人でもあります。さてさて、そんな小一郎さんって一体どんな人なんでしょ?




小一郎さんは1836年に、土佐藩郷士・川田恒作の二男として生れたそうな。
郷士という事もあって幼少時は貧しい生活を送るものの、理財の才があったため藩の会計方に登用され、成年時には困窮生活から脱します。さらに、明治維新時に発生した別子銅山労働争議を平和裏に解決した功により、藩の勧業・鉱山・通商の事務を掌握する地位を得て、郷士でありながら多少裕福な生活を送れるようになったようです。そして、藩の通商事務を掌握した小一郎さんは、その職務上、当時土佐藩が経営していた九十九商会(正式名・土佐商会)の責任者・岩崎弥太郎と知り合います。
二人が知り合った丁度その頃、新政府は「藩営の商会等は民業を圧迫するので解体せよ」という指示を発布。それを知った弥太郎が小一郎さんに「九十九商会を解体するくらいなら、ワシにクレ!」と言い譲渡を迫ります。小一郎さんも「せっかく設立した九十九商会を解体するのはもったいない。じゃあ、あんたに任せよう」と同商会を譲渡する事にしました。それを聞いた弥太郎は、さらに続けて小一郎さんにもう一つお願いをします。「小一郎さん。実は九十九商会だけじゃなく、あんたも欲しい。ぜひ九十九商会に移って管事(今でいえば副社長)になって下さい」
再三再四に亘る弥太郎の依頼に根負けした小一郎さんは、九十九商会への参加を決意。それに伴い一家とともに大阪へ引っ越し、弥太郎の片腕として活躍することになります(ちなみに、小一郎さんの子息・龍吉は、この引っ越しを契機に立身出世していきます。詳しくは「【土佐の偉人�@】川田龍吉:男爵イモの起源」を参照下さい。

三菱商会(1873年に九十九商会から名称変更)の管事に就任した小一郎さんは、新規事業開発を担います。当時の三菱商会は海運業を中心に営んでいましたが、海外企業や国内ライバル企業との競争が激しかった為、リスクヘッジとして他事業の拡大に取り組むことになり、小一郎さんはその責任者となったのです。
新規事業開発の責任者となった小一郎さんが最初に着手したのは、労働争議の起こっている鉱山の買収、つまりは鉱山開発事業でした。小一郎さんは土佐藩士時代に別子銅山の接収を平和裏に解決した経験を活かし、当時労働争議の起こっていた吉岡銅山や高島炭坑などを買収。その後も数々の鉱山を買収し、鉱山開発事業を成功させました。また、海運事業を担っていた石川七財が急死すると、その後任に就任。当時一大勢力となっていた「共同運輸」(政府と三井の共同出資会社)との海運競争に挑みます。ですが、競争の最中の1885年2月某日、突然、岩崎家の使者が小一郎さんを訪れこう言います。「主人(弥太郎)が急に体調を崩し、今夜が山らしい。主人があなたを呼んでいるので急いで来てほしい」
「これは一大事!」と、小一郎さんは急いで東京・芽町にある岩崎邸へ赴いた。親族の者が、病床に伏せっている弥太郎に小一郎さんの来訪を告げると、弥太郎は胃の激痛に顔を歪めながら小一郎さんと岩崎弥之助(弥太郎の弟)を枕元に呼びこう言った。「弥之助、久弥(弥太郎の息子)を嫡統とし、お前は久弥を輔佐せよ。小早川隆景が毛利輝元を輔佐したごとく頼むぞ。川田、わしは志したことの十のうち一か二しか出来なかった、もう一度事業を盛りかえしたい…。 弥之助、川田よ、わしの志を継いで、事業をしっかり頼む」そう言った数分後、弥太郎は息を引き取った。
「久弥をいずれは社長に。それまでは二人で会社を切り盛りしてくれ」という弥太郎の遺言どおり、まだ若い久弥が社長の器となるまでは、弥之助と小一郎さんの二人が中心となって三菱を経営することになった。弥之助は2代目社長となり、懸案事項だった海運競争を終結させるため、海運事業を分社し共同運輸と合併させ日本郵船を設立。海運競争を終結させた。また、造船業・金融業などにも進出し、後の財閥形成の基礎をつくった。
小一郎さんはそれらに着手する弥之助を補佐していたのだが、弥太郎の死から4年経ったある日、小一郎さんの元へ、時の大蔵大臣・松方正義から「話がある」と面会依頼が入ってきた…。




松方正義とは、1835年生まれの元薩摩藩士。1882年に大蔵卿に就任し、西南戦争以降に発生したインフレを収束させるため、緊縮財政と増税を実施、また日本初の中央銀行である日本銀行を設立した。この結果、いわゆる松方デフレを誘発させインフレは収束するのだが、次の問題も生じさせた。
�@ 誘発されたデフレによって繭の価格が下がった。
�A 全国で勃興した株式会社の多くが紡績業だったため�@により業績が悪化
 した。
�B しかも�Aの多くの企業は、分割払込制度を利用し十分な資本金を持たな
 いまま設立していたため、数多くの企業が倒産の危機に陥った。
�C 資金繰りに窮した�Bの企業が、倒産を避けるため銀行に融資を依頼した
 ため、金融が逼迫した。
�D そこで政府は�Cを調整するよう日銀に指示するが、数年前に実施した国
 立銀行条例改正や紙幣整理政策の混乱と相まって調整が進まない。しか
 も、調整を担える有能な人材を日銀内・政府内で探したが見つからな
 い。
そこで松方は、1889年8月、民間から有能な人材を探して日銀総裁に登用し、上記問題を当たらせる事にした。適任者を探したところ、ある者から「あの三菱の創業メンバーであり、同社を大企業に育てた川田という企業家がいる。その者、昔は藩の勧業・鉱山・通商を掌握し藩内経済を治めていたそうだ。商いも経済も治めた経験のあるこの者なら、相応しいのではないか」という話を聞いたので、小一郎さんに「ぜひ会いたい」と面会依頼を入れた。つまり、小一郎さんに助けを求めたというわけだ。松方から日銀総裁就任を依頼された小一郎さんは「前社長との約束があるので、三菱を辞めるわけにはいかぬ。それでも良いならば就任しよう」と答え松方も了承。1889年9月3日、第3代・日本銀行総裁に就任した。

総裁に就任した小一郎さんは、日銀の機能強化に取り組んだ。まず1つは、支店網の拡大がある。これまで日銀は大阪以外に支店を設置しておらず、そのため地方の銀行は、為替決済できない際には船や陸路で現金を日銀本店または大阪支店に運んで決済し、再度地方へ戻すという作業を行っていた。このように為替決済には煩雑と危険が伴う事から、貸出利率や荷為替費用が高率となり、それが資金供給を受けた企業の経営を圧迫するという問題を生じさせ�Cを発生させていた。これを解決するため全国に支店を設置した。次に、改正国立銀行条例と紙幣整理政策がきちんと実施されるように、全国の国立銀行を統制した。というのも当時、全国にあった国立銀行は、国立銀行条例が改正されたにも拘らずそれに反対し、独自に紙幣を発行して流通させていたため金融統制が進まず�Dを発生させていた。このため、山本達雄など三菱の人材を日銀営業局長といった主要ポストに任命し、全国の国立銀行と折衝させ統制を強化。それにより�Dを改善させた。これらの機能強化によって次第に問題が解消され、わが国最初の経済恐慌を乗り切ることに成功した。
機能強化以外には、人材の登用と育成に注力している。まずは、高橋是清の登用が挙げられる。高橋は、元々は有能な官僚であったが退職し、ペルーに渡って銀山開発に取り組んだものの失敗。帰国後は芸者のヒモになっていた。それを知った小一郎さんは、官僚の道を捨てて海外に渡り銀山開発に取り組むという高橋のベンチャー精神を高く評価し、日銀に呼び入れた。後に高橋は大蔵大臣、総理大臣となるが、特に大蔵大臣時の成果で高く評価されることになる。高橋以外には先記の山本達雄もそうだ。山本は元々は三菱の社員だったが、小一郎さんに頑固さを評価され日銀・営業局長に抜擢された。頑固さを活かして対外折衝に注力し、権益を守ろうとする全国の国立銀行や、その同盟団体からの圧力をはねのけ、日銀の中央銀行としての機能を守った。彼は後に第5代・日銀総裁に就任する。この他にも、多くの人材を登用しては、有能な者には海外留学や高等商業(現一橋大学)に国内留学させ、人材育成に注力した。

日銀機能の確立や人材育成に注力した小一郎さんは、三菱の仕事も続けていたために多忙を極めた。そのため日銀へは出勤せず、行員や大蔵大臣・渡辺国武を牛込の私邸に呼びつけて仕事をしたり、たまに出勤したかと思えば、ぐるっと行内を巡って指示を与え数分でまた帰って行った。だが指示内容は的確だし、官僚とはまた違う威厳と風格が備わっていたため、誰も文句は言えなかったそうだ。この様子と、日銀機能を強化して恐慌を乗り切った手腕から、人々は小一郎さんの事を「日銀の法王」「明治のローマ法王」と呼ぶようになった。
1891年、久弥が三菱の副社長に就任すると、小一郎さんは「これで弥太郎の遺言は果たした」と、三菱の要職を退任。日銀総裁職に専念することにした。当時は日清戦争が勃発したため、戦中戦後の財政・金融の維持に尽力し、これに成功。これらの功により1895年10月31日、男爵に叙せられた。
しかし1896年11月7日、大阪同盟銀行間のトラブル解決のために出張した大阪(京都別邸の説もある)にて急死。持病の心臓病による発作だったらしい。行年60歳。



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良いモノは、よーっく見てみると、細部に至るまでこだわりを感じられることが多いっすよね。


高知城もそうだと思うんスよ。


これ ↓ は高知城の天守閣を写したものだけど、この一枚の写真の中に様々なこだわりが見て取れる。
まずは唐破風。唐破風には戦闘上の利点はまったく無く、普通は単に飾りとして付けられる。ちなみに「唐」と銘打ってるけど日本発祥なんだって。
次は、唐破風の上に見える高欄。高欄は桃山時代までは「遠方にいる敵を目視するため」という戦闘上の利点から城などに取り付けられてたけど、徳川の世になると戦が無くなったことから、高欄を取り付ける城はほとんど無くなったそうだ。なのに、初代城主・山内一豊は、わざわざ徳川家康から許可をとって、高知城に高欄を取り付けたらしい。なんでだろ?
もしかして一豊は「信長、秀吉、と天下を取った者はすぐに消えていった。いずれ家康の世も転覆され、再び乱世が訪れるかもしれない」と考え、実戦的な城にするために高欄を取り付けたんかな?それとも新しい城を設計するのが面倒だったから昔住んでた城と同じにしたのか?それとも単に趣味に走っただけ?

まあ、真実は歴史家に任せるとして高知城の観賞を続けますか。
次は鯱鉾。鯱とは、魚の体に虎の頭という想像上の動物で、火があると口から水を吹き出し鎮火させると信じられている。鯱鉾とは、それにあやかり火災除けとして造られた鯱の形をした飾りで、重要な建物などのてっぺんに取り付けられるようになったものだ。ちなみに、普通の鯱鉾は陶器や銅板で造られてるけど、高知城の鯱鉾は青銅で造られており、全国的にも珍しいそうだ。

鯱鉾には「火災除け」という願いが掛けられてたけど、こちら ↓ の鬼瓦さんは「厄除け」という願いが掛けられてる。疫病や貧困をもたらすなにかが近づかない様に、鬼の怖い形相で追い払うんだって。

あ、もう1つ「火災除け」を願掛けてるモノがありました。
それがこれ ↓ 三つ巴紋の瓦当です。三つ巴紋は、水が渦を巻く様子から平安時代末期から火災除けのシンボルとして使われるようになったそうだ。高知城の主要な建物の瓦当には、この紋が入ってます。火災除けバッチシだね!
ちなみに三つ巴の紋は、戦いの神である八幡大菩薩の神紋でもあります。山内家の家紋を三つ巴紋で上下で挟んでいるのは、火災除けだけでなく武運長久も合わせて願掛けてるからなのかもね。

防火と言えば、白い壁の部分があるでしょ?これは漆喰という泥を固めて造った耐火性の高い壁なんです。その壁には2機の石落としと忍び返しを設けて防御力を高めている。
なんか城って、単に城郭を見るだけじゃなく、細かいところを見れば見るほど見所があっておもしろいね。

いや~。
お城って、ほんっとに良いもんですね。
それではまたお会いしましょう~。


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