2010年02月

久々にぼけーっとポタってきました。
ルートは、まず高知市内から土佐道路を通って土佐市に入り、塚地坂トンネルを通って宇佐へ。


今にも「パオーン」って鳴きそうに思うのはワシだけでしょうか?クジラなんだけど…。

で、宇佐から海岸線に沿って春野方向へ。仁淀川河口大橋を渡るとすぐに北上。
仁淀川横にあるロードライドにピッタリな道を通って春野市街へ。途中スパってさっぱりして帰ってきました。


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浄瑠璃や狂言の三大名作と言われるものの一つに「菅原伝授手習鑑」というのがある。この登場人物の一人に「白太夫」と言う人がいるんだけど、この人を祭った神社があるのを御存知だろうか?


その神社は「白太夫神社」と言い、祭神は白太夫こと菅原道真の従者・渡会春彦翁(松本春彦?)で、天満宮の第一の末社として全国の天満宮に祀られている。
で、ここ高知にも白太夫神社があるんだけど、ここのは他の白太夫神社と比べてちょっと特別だと思うんすよ。なぜなら、ここには祭神である白太夫の奥津城(おくつぎ)があるから。ちなみに奥津城とは神式の墓のことね。

なぜ高知に白太夫の墓があるのかと言うと、白太夫が、道真の遺品を、土佐に左遷されてた道真の息子・高視に渡すため来高した際にここで亡くなったから。
延喜3年2月25日、菅原道真が左遷先の太宰府で亡くなると、その従者である白太夫は、道真の息子・高視へ道真の遺言と遺品を渡すために、当時70歳を超える高齢だったにも拘らず約2年半かけて高知までやって来た。高知へ入った白太夫は、大津・船戸の岩崎山にある霊松山雲門寺を訪れ、ここで事の次第を住職に言って高視の居場所などを調べようしたんだけど、翌日の延喜5年12月9日、長旅の疲れと「もうすぐ会える」と気が緩んだためか、高視へ道真の遺品を渡すこと無く79歳で亡くなってしまう。この白太夫の忠臣話を聞いた村人は感動し、白太夫を祭った神社と墓を建て、遺品は住職が高視のもとへ持って行った。そして遺品を受け取った高視は、その遺品を祀った社を建て、それが今日の潮江天満宮となった。

ちなみに、白太夫は元々は伊勢神宮の外宮祀官だった人で、菅原道真の父・是喜が世継ぎの誕生を春彦に祈願させたところ道真が生まれたのを縁に、道真の守役として仕えた人。
なぜ白太夫と呼ばれるのかと言うと、高視に遺品を届け終えた春彦の霊が白装束の姿で道真の墓に現れたからとか、高知に来た際の装束が白かったからとか、若い時から白髪だったとか、諸説ある。
また「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の歌で有名な飛梅の話に出てくるのも白太夫です。この話はそのうち…。


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ブチ…
  
ブチッ…  

ブチチチッ……! 



ズパ――――ンッ!!!



パーン… 

パーン… 

パーン…

パーン…

パーン…




びっくらこいたおーヽ(TдT)ノ
空気入れてたら、タイヤがバーストしたおー( TωT)o
ダーブロ�Uはもう売って無いからショックだおー(T-T)ノ~

いや~、
しっかしこんな事ってあるんですね。チューブも見事に破裂してます。
破れ方と状況を見るに、多分、タイヤのサイドに傷が入って裂けてて、空気を入れた事によりそこからケブラーワイヤーが取れってって、ついに破裂って感じか?

ついでなんで、本体のオーバーホールする事にしました。
まずはホイールを外します。これはフロントホイール。ハブはホワイトインダストリーですね。15年くらい昔は、この太さでもサスペンション用として剛性が強い方だったんですよ。今じゃ剛性弱いとみんな思うでしょうね。

これはリアホイール。ハブはヒューギですね。
ラチェット音がめっちゃウルサイやつです。

クランクを外します。

チェーンを外します。

全部ばらしてフレームをコンパウンドで磨こうと思ったんですが、サスの色落ちが酷いので再塗装したいのと、ヘッドセットを交換したいので、しばらくこのまま放置する事にしました。サスを再塗装してから組み立てようと思います。なので、塗装に適してる夏あたりに組み上げるつもりです。





今回の土佐の偉人は、杉本丑衛(すぎもと うしえ)さん。

戦争の重要な局面に何度も居合わせるものの、いつも上司に恵まれなかったため成果を出せなかった人です。その最たるものが、飛行機でブインへ移動中だった山本五十六が敵機に奇襲され戦死した事件で、現地司令官だった丑衛さんは「護衛機を付けるべき」と進言するも却下され、結果、山本は戦死しました。そんな上司に恵まれなかった丑衛さんってどんな人なんでしょ?



丑衛さんは1894年5月12日、父・猪太郎、母・琴の4男として高知市・潮江に生まれた。海南中学校を卒業すると海軍兵学校へ進学し1916年に海兵44期で卒業。卒業後、艦船勤務などを経て横須賀海軍航空隊の航空学生課程に入り、以後は航空畑を歩む。
同課程を出ると、霞ヶ浦航空隊の分隊長、空母・鳳翔の分隊長、横須賀航空隊の分隊長などを経て、1927年6月から空母・赤城の分隊長、1928年12月からは空母・加賀の分隊長となる。1933年10月10日には空母・赤城の飛行長になり、この年に初の夜間着艦に成功する。空母に夜間着艦できるほどの凄腕が認められてか1934年11月1日から海軍航空技術廠の飛行実験部員となり欧米各国に出張・視察を行う。1937年には空母・蒼龍の艤装員(艦が完成するまでの責任者の事)となり、同艦が完成すると副長となる。1939年11月15日、大佐に昇進すると岩国海軍航空隊司令官となる。
1940年6月21日からは、空母・龍譲の艦長(一時期、鳳翔艦長も兼務)となる。太平洋戦争が開戦すると南方方面攻略に従軍し「南比島攻略作戦」「バンカ・パレンバン攻略作戦」「アンダマン・ビルマ攻略作戦」「インド洋機動作戦」などに参加。輸送船等16隻、駆逐艦ホープ、水上機母艦、などを沈没させ武勲をたてた。しかし1943年3月10日、第204航空隊司令官に転任。ここから悲運の戦歴を重ねることになる。
(↓高知・宿毛湾に停泊中の蒼龍(右)と龍譲(左) 雑誌「丸」編集部編『海軍艦艇写真集�E』光人社より)

�@ 第204航空隊司令官
1943年3月10日、丑衛さんは、あの有名なラバウル航空隊の主力部隊である第204航空隊司令に着任した。しかし、この頃のラバウルは、これまで優位を誇っていた零戦の弱点がアメリカに露呈したため空戦で不利に立つようになり、かつ数日に1度以上50~80機の敵機が来襲するという激戦の地になっていた。さらに悪い事に、ラバウル航空隊の上部組織である南東方面艦隊の幕僚が、航空戦の知識を持たない者や精神論者ばかりだったため実現不能な作戦を立案し無理強いさせていた(実際、丑衛さんの着任数日前に「81号作戦」が実施され、いわゆる「ダンピール海峡の悲劇」が起こっている)。
そんな所へ丑衛さんは着任してしまった。やり難そうな所だと思った事だろう。そしてその不安は的中する。1943年4月17日、南東方面艦隊司令部から「明日、連合艦隊司令長官・山本五十六大将が、前線視察のためラバウルを訪れ、その後にブインを経由してショートランド方面に向かう。この護衛のために204空の中から護衛戦闘機を6機付けるように」という指示を受けたのだ。丑衛さんは「ここは激戦地だ。6機では少ない。最低20機は付けなくてはならんでしょう」と返すが、司令部はその進言を却下。これが後の悲劇の種となる。
というのも実は、アメリカ軍は山本のブイン移動を予測しており、その移動中に山本を迎撃しようとしていたのだ。1943年4月18日、山本迎撃のため出撃したミッチェル少佐指揮するP-38ライトニング戦闘機16機は、ブイン上空で一式陸攻2機と護衛の零戦6機を発見。ミッチェルは編隊を2隊に分け、1隊が零戦の弱点を突いて山本機から引き離すと同時に、もう1隊が山本機を後方から攻撃し墜落させ、山本は戦死した(海軍甲事件)。
もし、丑衛さんの進言通りに戦闘機の数を20機にしていたら、もしかしたら山本は戦死しなかったかもしれない。そして、もし死ななかったらば、後の戦局は変わっていたかもしれない。非常に悔やまれる。
(↓大和ミュージアムに展示されてる零戦)

�A 第62航空戦隊司令官
山本を守れなかった丑衛さんは、1943年9月1日に第27航空戦隊司令官に転任し、半年ほど北海道以北の警備を担当する。その後1944年2月1日に第1航空艦隊(艦隊という名であるが実態は基地航空隊)内に新設された第62航空戦隊の司令官に転任させられ、中部太平洋の警備を担当することになった。
しかし、第1航空艦隊司令部の命によって、航空機を複数の基地に分散させていたために、侵攻してくる敵に大した反撃も出来ず各個撃破され弱体した。このため同戦隊は1944年6月15日に、フィリピン防衛のため新設された第2航空艦隊(1航艦と同じく基地航空隊)の指揮下に入ることになり、丑衛さん自身も同艦隊参謀長に転任となった。

�B 第2航空艦隊参謀長
2航艦の参謀長になった丑衛さんは、近日中に参加予定の「捷1号作戦」の実施準備を始めた。捷1号作戦とは、フィリピンへの来襲が予想される敵艦隊を迎撃するというもので、2航艦は敵艦隊を空撃し、かつフィリピンの制空権を守るという任務が与えられていた。このため、航空機が無かった2航艦は、各地の残存航空機をフィリピンに集結させる事にし、その中継基地として最適な台湾に司令部をおいて準備を進めていた。
だがそこに、軍令部作戦課の源田実大佐が訪れた。源田は「一部の航空機と搭乗員を頂く」と言うと、丑衛さんが集めた航空機と搭乗員の中から優秀な者のみを奪って「T攻撃部隊」(敵が航空機を運用できない夜間や悪天候時に攻撃するという部隊)を編成し、自ら司令官を兼任して独自の行動をとりだした。「せっかく苦労して集めた航空機と搭乗員なのに、大本営の参謀だからといって何勝手な事をするのだ。しかも我々が指揮するのは残りもので使えるものがおらん。我々も作戦を実施しなければならんのに、これでは何も出来ないではないか」丑衛さんはそう思ったことだろう。しかも、丑衛さんは少将で源田は大佐、海兵卒業年次は8期も違う。年功序列の強い海軍における源田の行動は、例え大本営の参謀といえども横暴だった。
だが文句を言ってもしかたがない。現状の2航艦では作戦実施が困難だと思った丑衛さんは何とかしようとするが、直属の上司である司令長官・福留繁中将は大艦巨砲主義者で航空はまったくの素人、まわりに相談できる者もおらず四面楚歌となる。「どうしたものか…」と考えあぐねるものの、時すでに遅し、アメリカ軍が台湾に大規模な空襲を仕掛けてきた。

◆台湾沖航空戦
1944年10月12日、ハルゼー大将指揮下のミッチャー中将率いる第38任務部隊は、艦載機1378機を出撃させ台湾を空襲、翌13日には947機で空襲し、14日にも146機で空襲した。これらに対し2航艦は、連日防空迎撃し、来襲する敵艦載機の損失を日に日に増加させた。
一方、源田率いる「T攻撃部隊」は、12日に約90機を出撃させ敵艦隊への夜間攻撃を実施するも、悪天候のため戦果を出せず、かつ半数以上の54機が撃墜された。それにもかかわらず源田は、翌13日と14日にも夜間攻撃をかけ、ついには「敵艦隊はT攻撃部隊の活躍により壊滅しかけている。2航艦も攻撃に加わり、これにトドメを刺すように」と言い出し、T攻撃部隊と2航艦合わせて約380機の昼間攻撃を行わせた。しかし、実際のアメリカ艦隊はまったくの無傷だったため、攻撃隊は上空直掩していた敵艦載機に迎撃され240機が撃墜された。この後も源田は無茶な出撃命令を出し続け、15日と16日には連日連夜の反復攻撃を行わせた。このため多くの航空機を失ったものの、度重なる攻撃の成果か16日には敵も空襲を中止したため、この日 台湾沖航空戦が終結した。
大本営はこの戦いの戦果をまとめると「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、艦種不明15隻撃沈・撃破、の大勝利」と伝えてきた。それを聞いた丑衛さんは「多くの搭乗員と航空機312機を失った。だが、彼等の犠牲は無駄にはならなかった」と思っただろう。だが、実際はまったく違っていた。

◆捷1号作戦
10月17日、アメリカ軍がフィリピン・レイテへ進攻した。この報を受けた大本営は「台湾沖航空戦により敵艦隊は手負いだ。これを全艦隊で攻撃してトドメをさし、敵のフィリピン侵攻を阻止する」と決定し、捷1号作戦を発動した。
しかし、台湾沖航空戦で壊滅したはずの敵艦隊および艦載機は、実はまったくの無傷だった。このため日本艦隊は敵艦載機の大空襲を受けた後に、潜水艦による雷撃や艦船からのレーダー照準射撃を受け、次々と沈められていった。また日本の航空隊は、2航艦が台湾沖航空戦の被害により出撃可能機が少なかったため大した戦果を出せず、1航艦は2航艦以上の損害だったため組織的な航空戦が出来なかった。このため1航艦司令長官・大西瀧治郎中将は、正式命令としては初となる特攻を命じた。
丑衛さんはこの状況を見て「T攻撃部隊の活躍によって敵艦隊は壊滅状態ではなかったのか?これでは一体、何のために2航艦の兵士は死んでいったのだ…。だいたい源田が勝手な事をしなければ、事態はここまで悪くならなかったのではないのか?」と思っただろう。丑衛さん以外の航空司令や名パイロットも後にそう述べている。そして、無能な司令長官と現場を知らない参謀により、全てが上手くいかなかった丑衛さんは、この後に最前線に左遷される。(↓この戦闘で大和の同型艦・武蔵も沈没した)


�C 第26航空戦隊司令官
1944年10月27日、丑衛さんは、自ら特攻して散った有馬正文少将の後任として、第1航空艦隊内の第26航空戦隊司令官に転任する。この戦隊は、フィリピンに上陸・侵攻したアメリカ軍を駆逐するため、フィリピン・ミンダナオ島ダバオに司令部を置いて7個の航空隊を指揮する事になっていた。
だが実態は、故障機などを寄せ集めただけの部隊だったため稼働できず、やむなくマニラ近郊へ移動し陸戦隊(クラークフィールド地区海軍防衛部隊)となって、陸軍第二師団の指揮下に入り地上戦に参加した。
そして1945年6月12日、丑衛さんは同部隊約15000名と共に、上陸したアメリカ陸軍部隊との陸戦に参加、地上戦闘中に戦死した。享年52歳。死後に海軍中将に昇進し、従4位勲2等が叙された。高知市内の薊野に墓が建てられている。



いつの時代も、時代遅れの頭をもった上司や、「自分は優秀だ」と思い込んでいる上司やエリートによって、全てがダメになる事があるんですね。その陰には、丑衛さんのような犠牲者が大勢いるという事を考えてほしいものです。



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