今回の
土佐の偉人
は、岡村徳長(おかむら とくなが)さん。良い意味で「海軍の奇人」と言われた好漢で、海軍に様々な逸話を残した伝説の人です。
また海軍航空隊の礎を創った一人でもあり、最近では かわぐちかいじ作の「ジパング」に登場し有名になっています。さて、そんな徳長さんってどんな人なんでしょ?
徳長さんは1897年1月10日、屋根瓦ふき職人・熊之助の長男として、高知県安芸市井口村に生まれた。
海南中学校を経て海軍兵学校に入学し、同校卒業後は、横須賀海軍航空隊・佐世保海軍航空隊・水上機母艦「能登呂」飛行長・偵察員(=機長)育成教官など、主に航空畑の勤務を務めていた。だが1935年3月「中島飛行機」に入社。数年勤務した後に退社し「富士航空」を設立して航空機研究に取り組むことにした。ところが1941年11月、世間に開戦の機運が高まってくると、突然、会社の経営を知人に任せて軍に現役復帰を志願。復帰が許され、第3艦隊兼第11航空艦隊司令部附となった。
ここで注目すべき事が起きる。徳長さんが附いた第11航空艦隊揮下の第22航空戦隊が、96式陸上攻撃機を使って敵戦艦を沈めたのだ(マレー沖海戦)。この戦いは「航空機では航行中の艦船を撃沈することは出来ない」という当時の世界の常識を覆した一大事なのだが、これを可能にさせたのが96式陸上攻撃機で、実はこの機の開発に徳長さんが関わっていたのだ(詳しくは後述…)。
その後、佐世保鎮守府附を経て第13設営隊長を拝命。ガタルカナル島に派遣され、ルンガ飛行場建設を指揮し完成させた。しかし米軍が同島に来襲し、あのガダルカナル島の闘いが勃発したため約半年間の自給自足戦を展開する事になった。
奇跡的にガダルカナルから生還した徳長さんは、その後いくつかの部隊長を務めた後、岩国海軍航空隊司令兼副長となり終戦を迎える。戦後は1948年に共産党に入党。1972年7月19日、胃癌により75歳で亡くなった。
さて、この経歴を見てみると、軍を辞めて飛行機メーカーに入社し、入社したかと思えばすぐに辞め自分で会社をたてたり、そして再度軍に戻るなど、徳永さんの人生は紆余曲折を経ているように見受けられます。が、その原因には徳永さんの性格があるように思えます。徳永さんの性格を、様々な逸話から見てみましょう。
�@逸話
◆命令には絶対服従!?
中学時代、教練授業にて校庭で行進練習をしていたときの事。教師が「前へ進め!」という命令を出したため、生徒達は校庭を前進し、校庭の端まで来たら言われるまでもなく90度向きを変え行進を続けた。だが徳長さんは校庭の端まで来ても曲がらず直進し、そのまま校庭を突き抜けて、校庭前にある川へ突っ込んで行った。教師や皆は愕然とし「なぜ曲らなかったのか?」と聞くと「“前へ進め”という命令の後“曲がれ”という命令が無かったので直進し続けた」と言ったそうだ。う~ん、実直と言うべきなのか?
◆大臣!よけいな訓示はやめろ!
海軍兵学校は卒業直前に授業の集大成として遠洋航海に出るのだが、その前に海軍省を訪問し海軍大臣の訓示を受けるしきたりがある。徳長さんも卒業時、遠洋航海に先だって大臣の訓示を受ける事になったのだが、ここでも皆を愕然とさせた。当時の海軍大臣は加藤友三郎、後に第21代内閣総理大臣となる男であるが、その加藤の訓示が長くなかなか終わりそうになかった。すると徳長さんは立ち上がって「大臣!そのような話はもうわかっちゅう。やめい、やめい」と言い、訓示をきりあげさせた。内定をもらった新卒学生が会社の会長に「話なげーんだよ!」と言うようなものか。
◆謹慎処分をまけろ!
大正末頃、水上機の移動訓練をしたときの事。目的地の海岸に到着後、水上機を海岸に係留して料理屋に行って飲んでいた。だがその夜、風波が強くなって機体が流されてしまい、人事局から責任を問われて謹慎一週間を命ぜられた。しかし徳長さんは一日謹慎したあと人事局に赴いて担当者に「自分は間違うていた。今後、反省する。しかし毎日の訓練を一週間も休むわけにはいかん。明日から訓練したい。処分は今日までっちゅー事にしてもらえませんろうか」と言った。担当者は前代未聞の依頼に驚いたが、徳長さんの熱意に動かされ「それでは三日にしてやろう」と言った。それでも徳長さんは食下がり「いや、どうしても二日にしてくれ」と言うと「君は今日は謹慎していないではないか」と言われ、結局、実質二日・形式三日、の謹慎処分でけりがついたそうだ。常識にとらわれず、かつ合理的な考えが出来るといったところか?
◆豪放磊落
艦船勤務の頃、上陸して街で飲んだ後、沖に停泊している艦に戻ろうと桟橋に行ったが迎えの船に乗り遅れた。船は桟橋から少し離れた所にいたのだが、それを見つけた徳長さんは、礼服のまま海に飛び込み泳いで後を追っかけたそうだ。また別の日の事、飲んだ後に人力車に乗ったのだが、酔った勢いで戯れに、着ていた礼服を車夫に着させ、自分は車夫の服を着て車を引いた事もあったそうだ。奇行とも言える行動が多いが、軍内外の人々からは「風変わりだがサバサバしていて気持ちがいい」と好感を持たれていたそうだ。う~ん、豪放磊落って感じか?
上記の逸話から徳永さんの性格をまとめると、徳永さんは「豪放磊落で、規則や常識よりも実利性や自分が正しいと思った事を突き通す性格」だったと言えるのではないでしょうか。そのため、自分の考えが受け入れられないと軍や会社を何の未練もなく辞め、その考えを実現させるために邁進したのではないと思えます。では、徳永さんが考えていた事とは何でしょうか? それは海軍航空機の発展です。
�A海軍航空機の発展に寄与
◆計器改良のきっかけをつくる
現在、航空機の操縦はほとんど計器を見て操縦しているが、1920年代の航空機には単純な計器しか無く、人によっては計器を見ずに飛行している者もいた。このため、計器があるにも拘らず計器を見ずに飛ぶという風潮が増え、その結果、錬度によって飛行にバラツキが生じ集団飛行が上手く出来ないといった問題も生じていた。これを危惧した徳長さんは、計器を上手く使った飛行方法の開発を行ってみた。
しかし、飛行方法の開発は失敗に終わった。高度計の目盛が100m単位であり、旋回計にいたっては目盛すら無い単純な 物で、ほとんどの計器が役に立たないものだったのだ。だが、これきっかけに計器改良の必要性が問われるようになり、計器が改良されるようになった。その結果、精緻な集団飛行も可能になった。
◆96式陸上攻撃機の開発に参加
96式陸上攻撃機とは、日本の航空技術が欧米と同等レベルにまで進化した事を示した最初の機体で、その開発に徳長さんも関わっていた。設計内容の検討会議で、搭乗員の配置について徳長さんは「偵察員または機長の立場から、機の運用上、操縦席を前方に出して、偵察員・電信員の席を広い胴体内の中央に置かなければならないから、機首方向の射界を犠牲にしても、偵察席は操縦席の後方にすべきである」と主張し、爆撃・雷撃しやすい設計にするよう要求した。徳長さんの提案に当時の航空本部長・山本五十六も賛同し、徳長さんの要求通りの設計になった。その結果、96式陸上攻撃機は、日中戦争での渡洋爆撃を可能にし、経歴の所でふれたマレー沖海戦での英戦艦プリンスオブウェールズ及びレパルス撃沈といった武勲をあげた。
◆周囲に集う名パイロット達
徳長さんの豪放磊落な性格に惹かれてか、彼の周囲には名パイロットが集まった。例えば徳長さんが育成教官をしていたときの部下である入佐俊家は、後に「陸攻の神様」「海軍の至宝」と称えられるほど活躍した。入佐は徳長さんのことを「最も尊敬する先輩」と称えた。また、入佐と同じく部下だった源田実は、徳長さんを「強烈な意志力、生に対する異常なまでの執着力、任務遂行に対する燃えるような熱情を持っている」人と称している。ちなみに、弟の岡村基春は「海軍戦闘機隊のエース」と称された人で、妹の清子は「艦上爆撃の神様」と称された江草隆繁の妻となった(これまたちなみに二人の墓は筆山にある)。
航空機の発展に貢献した徳永さんは、その経験を買われて第13設営隊長を拝職。ガダルカナル島へ赴任し、陸上攻撃機が発着しやすい滑走路を建設するよう命ぜられた。
↓96式陸上攻撃機。栗原幹夫「連合艦隊浮上す」KKベストセラーズより。

�Bガダルカナルでの自給自足戦
1942年7月1日、徳長さんは約1300名の刑余者やヤクザで構成されている第13設営隊を率いてガダルカナル島に上陸。飛行場建設作業は、同時に上陸した第11設営隊の約1350名と共に7月6日から開始した。徳長さんは、みずからねじり鉢巻きをしてモッコをかつぎ、ジャングルを切り開く工兵たちと一緒にどどいつを唸りながら日夜作業を手伝って、8月5日には滑走路の第1期工事を完了させ、上部組織である第11航空艦隊に「もうあらかた出来あがったから1日も早く戦闘機を送れ」と頻繁に打電した。
しかし、その2日後の8月7日、バンデグリフト少将率いる第1海兵師団・約11000名が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川付近に上陸。あの「ガダルカナル島の戦い」がはじまった。ちなみに、両設営隊は工事専門の部隊だった為まともな武器を保有しておらず、唯一まともな武器を保有していたのは、同時に上陸した海軍陸戦隊の約600名のみだった…。
8月7日、午前4時、日本軍は哨直の第13設営隊以外は眠っており、米軍の攻撃は完全な奇襲となった。米軍上陸に気付いた徳長さんは、従兵に「馬を引け!」と命じ、乗馬して敵中に斬り込もうとしたが「相手は銃砲の敵だからだめです」と引き止められた。米軍が上陸したテナル川方向には第11設営隊がいたが、まともな武器も陣地も持たなかったため米軍にあっとゆう間に駆逐され、テナル川からルンガ川東岸一帯(この中に、徳長さん達が建設した飛行場がある)を占領された。これを見た徳長さんは、設営隊をルンガ川西岸に移動させルンガ川橋梁を破壊し、限られた武器を使ってルンガ川西岸からの米軍迎撃態勢を敷いた。
夕方、どうにか数十名の部下とともに脱出した第11設営隊長・門前鼎大佐が徳長さんと合流して善後策を協議。ルンガ川より西方約4Km にあるマタニカウ川に陣を敷く事を決定した。8月8日、午前0時、生き残った第11設営隊はマタニカウ川後面に後退して本部を設置し、午前4時30分には第13設営隊と陸戦隊がマタニカウ川正面に展開して陣を敷いた。この際に確保できた全部隊の糧食は7日分のみ。糧食尽きた後は1943年2月のケ号作戦による撤収まで自給自足戦を展開する事になった。
※「ジパング・第16話」にて設営隊長時の徳長さんが登場する。
ちなみに「ジパング」とは海自の艦艇「みらい」が第2次大戦中の太平洋にタイムスリップして、中立的立場から日米問わず戦闘を中止させようとするとかなんとか…。
�C戦後
ガダルカナルでの約半年に及ぶ自給自足戦を奇跡的に生き延びた徳長さんは、その後いくつかの部隊長を務めた後、岩国海軍航空隊司令兼副長となり終戦を迎える。
戦後は「海南産業」という会社を設立し、運送業や農機具販売など幅広く事業を手がけた。また、マルクス主義の研究を始め、1948年に共産党に入党。天皇御幸の際には赤旗を振って「天皇陛下万歳!」と叫んで歓迎した。豪放磊落で、規則や常識よりも自分が正しいと思った事を突き通す性格がここにも表れているように思います。豪放磊落で「海軍の奇人」と称賛された徳長さんだったが、1972年7月19日、胃癌により自宅で死去。享年75歳。彼の遺骨は、東京・青山の解放運動無名戦士墓に分骨して祭られている。
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