2010年06月


今回の土佐の偉人は、大山豊次郎(おおやま とよじろう)さん。

家族のように大事にしていた部下達を守るため、自身の保身を省みず上層部に意見し、部下の命を救った人情味あふれる元潜水艦乗りの艦長です。さて、そんな豊次郎さんってどんな人なんでしょ?



豊次郎さんは1897年に高知県に生まれた。海南中学校を卒業すると海軍に入り、1919年10月9日に海軍兵学校を47期で卒業する。
兵学校卒業後は潜水艦畑を歩み、1933年11月15日には伊123号潜水艦の艦長になる。その後も1936年11月15日から伊6号潜水艦の艦長、1940年9月30日からは伊15号潜水艦の艦長、1941年2月13日からは伊9号潜水艦の艦長となり、1943年1月5日からは一介の潜水艦長から第30潜水隊司令となった。第30潜水隊司令となった豊次郎さんは、南西方面艦隊の指揮下で伊165号潜水艦と伊166号潜水艦を指揮し、ペナンを拠点にインド洋の通商破壊業務に従事している。
1944年2月5日には潜水母艦・迅鯨の艦長となり、数度の輸送作戦に従事。8月14日には、7月7日に緊急閣議決定された南西諸島の非戦闘員等10万人の集団疎開の先発隊として131人の輸送を実施、無事に鹿児島へ疎開させた(ちなみに対馬丸事件はこの直後に起こった…)。
だが9月19日に行われた輸送作戦で佐世保から那覇へ向かう途中、米潜水艦の雷撃を受け航行不能に陥る。航行不能に陥った迅鯨は沖縄本島まで曳航され修理をするものの、10月10日に米第38任務部隊所属の艦載機による空襲を受け沈没した。沈没直前、豊次郎さんは総員退艦命令を出し、自身は艦と運命を共にするつもりだったが「艦長も脱出を!」と部下に促され脱出、救助艇に救われている。
救助艇に救われた豊次郎さん達は沖縄本島にたどり着き、上層部と一悶着あったあと1ケ月後に横須賀に帰還。その後1945年8月15日から9月2日まで第15潜水隊司令となり、同隊の解隊作業に従事したようだ(ちなみに同隊の前司令は同じ高知出身の揚田清猪大佐だった)。以後は予備役に編入され、生まれ故郷の高知に帰郷。1989年に92歳で亡くなっている。




豊次郎さんの経歴の中で注目したいのは潜水母艦・迅鯨の艦長時代、そのなかでも沈没後の事だ。この時に豊次郎さんは軍から「沖縄で地上戦に参加しろ」という命令を受けたのだが、横須賀への帰還を意見具申し実現させ、生き残った部下達を沖縄戦へ参加させずに救っている。

◆迅鯨沈没
1944年10月10日、迅鯨は9月19日に受けた雷撃の損害を修理するため、沖縄県国頭郡本部町沿岸の瀬底水道に停泊していた。だがこの日、伊江島飛行場の爆撃に向かっていた米第38任務部隊所属の艦載機から約30分間の空襲を受ける。
機銃掃射と爆撃を受けた迅鯨は火災を発生させ、約400人の乗組員のうち航海長以下135名が戦死。豊次郎さんも機銃掃射により足に負傷し、さらに悪いことに首に断片が刺さって上半身が血で染められるほどの重傷を負った。豊次郎さんは重傷の中「総員退艦」命令を出し、自身は艦と運命を共にする覚悟を決める。だが周囲にいた部下たちが「艦長も脱出を!」と強く説得した為やむなく救助船に移乗、一命を取り留めた。
だが、元潜水艦乗りである豊次郎さんの心中は穏やかではなかっただろう。潜水艦乗りにとって乗員は「家族そのもの」だ。その家族を多数失ってしまったのに自分は生き延びてしまい、かつ艦と運命を共にして責任をとる事も叶わなかった。豊次郎さんは「家族である部下を多数死なしてしまったのに、自分が生きているなんて」と無念で堪らなかっただろう。実際、救助艇に運ばれる豊次郎さんの様子を見たある兵は「あの時の艦長の悲壮な姿が忘れられない」と戦後述べている。

◆名誉の戦死か、意義ある帰還か
迅鯨沈没後に豊次郎さんたち生存者は、負傷者手当等のため一旦沖縄に退避した。するとそこに、海軍沖縄方面根拠地隊司令から「迅鯨の生存者は全員、沖縄に残留せよ」という指令が入る。
指令を受けた豊次郎さんは「せっかく自分は生き延びたのだから、今生きている乗員の為に尽くそう。そうすれば死んでいった乗員も報われるだろう」と思い、生き残った乗員を集め「諸君たちの意見はどうか」と尋ねた。よくいる司令官や部隊長などは「お国の為に玉砕しろ」と無理強いしそうだが、「乗員はみな家族」そして何より「今生きている乗員のために尽くす」と決めた豊次郎さんは皆の意見を優先する事にしたのだ。
豊次郎さんから意見を求められた皆は「残念ながら、我々がいても何の役にも立たないでしょう」それなら「いったん内地に戻り、立て直しましょう」と答えたので、それを聞いた豊次郎さんは一言「横須賀鎮守府に要請する」※と答えた。サイレントネイビー(国防の為なら何も言わずに任務を果たすという意味)である事が重視された海軍において、一旦下った任務に意見具申し、しかも沖縄が激戦地になる事が予想されるにも関わらずそこから逃走するかのような行為は、内地に帰れば世間から「戦から逃げた卑怯者」として叩かれる事は誰でも予想出来た。
それにも拘らず豊次郎さんは意見具申した。「今生きている乗員の為に」と。その甲斐あって意見具申から1ヶ月後、鎮守府から「横須賀に帰隊せよ」との指令が出て、迅鯨乗員は後の沖縄戦へ参加することなく帰還できた。当時の部下は戦後「今日まで生き永らえたのは艦長のおかげ。あの時の艦長の判断がなければ、我々は沖縄で全滅していた」と言っている。
※当時、迅鯨は呉鎮守府に所属していたので「横須賀鎮守府に要請する」という豊次郎さんの言は証言者の記憶違いだと思う。

◆戦後も部下の死を悔やむ
戦後、豊次郎さんは迅鯨の生存者でつくった「迅鯨会」の会長を務め、迅鯨の戦死者の鎮魂の為に、引き揚げられた迅鯨の菊花紋章に金箔を貼りなおして靖国神社に奉納した。
そして1985年に迅鯨会が靖国神社で行った慰霊祭に、豊次郎さんは米寿を迎えて参加。当時の乗員たちに会った豊次郎さんは苦しげな表情を浮かべ「ご遺族の方々に何と言っておわびを申し上げたらよいか」と言った。それを聞いた元乗員は「そんなに我々乗員を気にされていたのか」と感動のあまり絶句したそうだ。慰霊祭に参加するまでの40年間、豊次郎さんは、死んでいった乗員、残されたその親族、そして沖縄戦で亡くなった人々に対して「自分だけ生き残り、申し訳ない」という気持ちでいっぱいの懺悔の毎日だったのだろう。そして恐らく慰霊祭4年後に亡くなるまでの間もそうだったのではないだろうか。



そんな豊次郎さんについて元乗員は「艦長は、乗組員の絶大な信頼を集めていた」と述べている。それは豊次郎さんが、自身の保身を省みず部下・乗員のために尽力し、数十年たった後にも乗員たちを気にかけるような人だったからこそ得られた信頼だろう。
今の世に、豊次郎さんほど部下を思う上司が果しているだろうか。そして部下から絶大な信頼を集められる人情味ある上司がどれだけいるだろうか。表向きは良いように繕い、自己の保身のみを第一に考える輩が跋扈するこの世の中に、豊次郎さんのような人を求めてしまう。



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高知空港の周辺には「高知海軍航空隊跡」のページで書いた掩体壕やトーチカが残っている。

まずは海軍のトーチカ跡。空港近くの河川敷付近にある。
高知海軍航空隊には、7.7ミリ機銃と25ミリ機銃が与えられていたそうで、銃目の大きさから察するに恐らくこのトーチカには7.7ミリ機銃が設置されていたのだろうか。また、地理的状況から鑑みるに、このトーチカの正面は田んぼ方向だろう。

田んぼ方向が正面だとしたら、このトーチカの正面は破壊されている事になる。だが破壊状況から察するに戦災ではないだろう。もったいない。
トーチカは鉄筋コンクリート製だったが、小石が多く入っている、とても粗いコンクリートだった。終戦直前の物資不足時代に造られたものだから、案外、横の川から砂利を取ってきて急造した物なのかもしれない。

トーチカの内部。奥にゴミが散乱しているが、恐らくここが出入口だったのだろう。頭上の穴は偵察用の穴で、敵機が近づいてきたら頭を引っ込め機銃掃射したと思われる。このトーチカから撃たれたかは分からないが、空襲しに来たグラマンをどこかのトーチカが撃ち落としており、1999年にその機体のプロペラとエンジンが沖合の海底で見つかっている。



次は、空港から少し離れた所にある掩体壕。
掩体壕は、耐弾式有蓋掩体と呼ばれる鉄筋コンクリート製のもの9基と、屋根のない擁壁のみの無蓋掩体32基の計41基が造られたそうだ。現存している掩体壕は、これまでコンクリート製のもの7基のみだと考えられていたが、数日前に「草の家」研究員の方が、新たに約20基の掩体壕を発見したそうだ。こういった調査・研究を行っている方々には、本当に頭が下がります。

航空機の形をしてる。ここに白菊を格納してたんですね。
一部の掩体壕には、米艦載機の機銃掃射によって出来た、約100発の機銃弾跡が残っているそうだ。

掩体壕の内部。
トーチカと違い、きれいなコンクリート製だ。当たり前か。



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いまの高知高等技術学校のそばには、浦戸海軍航空隊があったそうだ。
そして同航空隊は、海軍最後の予科練生を迎え入れた航空隊だったらしい。


浦戸海軍航空隊は、1944年11月1日に別府明朋大佐を司令官に、練習連合航空総隊第19連合航空隊練習隊として開隊されたそうだ。その後、1945年3月1日に19連合航空隊が解隊となったため、呉鎮守府揮下の第21連合航空隊に転籍となる。
1945年4月1日には海軍最後の予科練生を迎え入れたが、「四国防衛軍のトーチカ跡」のページで書いた米軍によるパステル作戦の実施を予想した海軍は、6月1日に予科教練を凍結して全生徒を陸戦隊とし、陣地構築や陸戦訓練を行わせたそうだ。
ちなみに、司令官の別府大佐は滋賀海軍航空隊司令官を拝命したため転任し、後任の司令官には山田敏也大佐が1945年3月1日に着任し、解隊の7月15日まで指揮している。

これ↓は浦戸海軍航空隊の隊門跡。


同基地の近くには「高知海軍航空隊跡」のページで書いた、高知海軍航空隊の第二飛行場が開設されてたそうだ。



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いま高知空港のある場所は、その昔、海軍航空隊の基地だったそうな。
その名は「高知海軍航空隊」、当初は偵察訓練を、戦争末期には特攻訓練と実施を行ったそうだ。
↓現在の高知空港。当時もこのように飛び立って行ったのだろうか?まあ機体は何十倍も違いますが。


同航空隊は、源田実のライバルとして有名な柴田武雄大佐が設立委員となって設立準備がされ、1944年3月15日に山本栄大佐を司令官として迎えると、練習連合航空総隊第13連合航空隊偵察術練習隊として開隊された。開隊後は数千名の搭乗員候補生を奈良、鹿児島、松山、三重などから迎え入れ、偵察訓練に勤しんだそうだ。
しかし1945年3月1日、同航空隊は練習隊から第五航空艦隊の指揮下に入り、実戦に参加するようになる。翌月には第三航空艦隊第十二航空戦隊に転籍となり、その翌月から特攻訓練が開始され、8月20日の解隊までに数十機の特攻機が飛び立って行ったらしい。
ちなみに基地司令の山本大佐は、201航空隊司令官を拝命したため1945年7月10日に高知海軍航空隊を離れ、後任の司令官には加藤秀吉大佐が着任している。加藤大佐は8月20日の解隊まで司令官を務め、解隊10日後の8月30日に自決したそうだ。



この航空隊には、練習機「白菊」が50機ほど配備されたそうだ。そして戦争末期には、その白菊で編成された特攻隊である「菊水白菊隊」が編成され、実際に特別攻撃へ飛び立って行ったそうだ。飛行場周辺には白菊の格納庫である援体壕が、そして近くの河川敷には防空用のトーチカが残っている。


また、この航空隊は「三島村」というところに開隊されたのだが、滑走路等設置のために田畑等総面積2184反が接収されたそうだ。その中には263戸の住居があったのだが、約1500名の住民は強制退去させられたそうで、このため村は事実上消滅したらしい…。



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坂本龍馬が通ったことで有名な「日根野道場」がこの辺りにあったそうだ。
龍馬はその道場に14歳から通ったそうで、5年間の間に小栗流の「和兵法事目録」「和兵法十二箇条」「和兵法二十五箇条」「和兵法三箇条」などを習得したそうだ。

当時の日根野道場の道場主は日根野弁治。
日根野弁治は、1815年に郷士・市川信好の子として生まれた人で、後に日根野恵吉の養子となり日根野姓となった。もともと日根野家は武術師匠役を務める上士だったのだが、弁治自身が郷士の出であったので下士の門弟が多く集まったそうだ。

ちなみに、大江正路の剣術の師も、日根野弁治だったという説があります。
大江正路とは「英信流居合 第9代・林六太夫の墓」や「刀剣女子へ…知ってる?高知は居合の聖地なんだよ」でご紹介した英信流の谷村派第17代になった人。そして大江は英信流居合を下村茂一と谷村亀之丞から習っており、下村門下の門弟には細川義昌、板垣退助、片岡健吉などが、谷村門下の門弟には山内容堂がいる。



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