2010年08月

この前書いたネタ「【三都物語2010:大阪】土佐藩蔵屋敷跡」と同じ場所なんですが、ネタの内容が違うので改めて御紹介をば。

え~っと、この前書いた土佐藩の蔵屋敷跡なんですが、実は写真に写ってるビルの裏にですね、土佐稲荷神社が建っているんです。で、この神社なんですけど「箕浦猪之吉の生誕地:ハラキリを世界に知らしめた人」で書いた、箕浦猪之吉をはじめとする堺事件の烈士が謹慎させられていた場所なんですよ。
堺事件とは、フランス兵士の不法上陸を土佐藩兵が妨害し、その結果フランス兵11名が死亡した事件の事(詳しくは↑リンク先見てね)。そして兵を殺されたフランス公使ロッシュはこれに腹を立て、日本に事件に関与した土佐藩兵29名のうち20名の処刑を要求してきた。開国したばかりで外国と戦う余力の無い日本は、フランスのいいなりにならざるを得ず、その為ここ土佐稲荷神社にて切腹する者をクジ引きで決め、翌日に堺・妙国寺へ護送、11名が切腹した。

そんな悲話にゆかりのある土佐稲荷神社、いつからあったのかと言うと創建の由緒は不明だって。けど1717年には、時の藩主・山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とし、一般の参拝を許したそうだから、少なくとも18世紀初めには存在してたみたい。そしてそれ以来、山内家は参勤交代で大坂を通る際には必ずここに参拝してたそうだ。
ちなみにこの神社、明治になると藩の蔵屋敷と共に岩崎弥太郎に譲渡されており、境内内には移設された岩崎家跡の石碑がある。この詳細はまた今度…。


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17世紀の初め、大阪の堀江に、土佐藩の申請により材木市と鰹座が開かれた。
そして市座を設けた土佐藩がこの地に蔵屋敷も構えると、全国からこの地に木材や鰹が集まるようになり、それらはここを拠点にして全国に流通された。この事から、商都大阪の形成に土佐は一役買っていたと言えるだろう。その見返りだろうか、材木を流通させる際に必要となる問屋手数料が土佐藩は他よりも約5分の1程安くなっており、その他取引条件等も他より有利に扱われたそうだ。

ここ↓に土佐藩の蔵屋敷が建っていたそうだ。
そして蔵屋敷の北側には、商いの事務所である開成館の大阪出張所が設けられており、これは後に九十九商会になり、さらに後には三菱商会となった。ちなみに写真に移っていないが、この写真の右側にある道路の反対側辺りに、岩崎弥太郎邸があったそうだ。


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今回の土佐の偉人は、大八木静雄(おおやぎ しずお)さん。

国防の要を担った伝説の兵器「93式酸素魚雷」の開発者です。
93式酸素魚雷とは、日本のみが開発・運用に成功した魚雷で、零戦・戦艦大和とともに「日本の3大兵器」の一つとして称賛された名兵器です。さて、そんな兵器を開発した静雄さんってどんな人なんでしょ?



静雄さんは1897年1月23日に高知市に生まれた。1915年頃に東京に移り住み、東大工学部に入学。在学中の1919年7月14日に造兵学生として海軍に入隊しいっそう勉学に励んだ。翌年に東大を卒業すると呉海軍工廠水雷部に配属され広島へ移住。配属先では当初雑用などをした後に魚雷実験部員となり、魚雷開発の実務に従事した。1926年には技術大尉・造兵監督官となり渡英して、魚雷メーカーのホワイトヘッド社にて調査・研究に従事。同時にイギリス海軍の技術動向の情報を収集して本国へ報告するなどしている。1928年に帰国すると、翌年から再開された酸素魚雷開発の中心メンバーとして活躍し、1933年に試作第1号を完成させ、1936年に実用可能な酸素魚雷の開発に成功。その魚雷は93式酸素魚雷と命名され「日本の3大兵器の一つ」「海軍が誇る伝家の宝刀」と称された。
さて、静雄さんの開発した93式酸素魚雷って何でしょうね?国防の要を担った位だし、あの戦艦大和や零戦と並び称された位だからスゴイ兵器なんだろうけど、いったい何がスゴイんでしょ?



�@93式酸素魚雷とは?
◆酸素魚雷とは
魚雷の駆動方法をご存じだろうか? 魚雷は、燃料に燃焼気体を加えて燃料を燃焼させ、スクリューを駆動させる。そして使用する燃焼気体に普通魚雷は蒸気・空気を使用するが、酸素魚雷は蒸気・空気よりも燃焼効率の高い酸素を使用する。このため酸素魚雷は、普通魚雷よりも約4倍の熱エネルギーを発して駆動し、その分だけ優れた速力・航行力を発揮する。この利点があるため各国は、競って酸素魚雷の開発に取り組んだ。
だが、燃料と燃焼気体の混合時に大爆発が起きるという事故が多発したため全ての国が開発を断念。日本も例外ではなかったが、艦艇数で劣る日本は、個々の艦艇の武装力を強化することで数の劣勢を補完する必要があったため開発を諦めきれず一旦中断の形に。開発が立ち往生となった。そんな時、ある技術者が出張先の英国から帰国してきた。静雄さんだ。
◆93式酸素魚雷の開発
酸素魚雷の開発を諦めきれない海軍艦政本部は、英国で魚雷を調査・研究して帰国したばかりの静雄さんをリーダーに据えて開発を再開させた。開発チームは全員泊まり込みで開発に着手し、開発の難所だった燃料と燃焼気体の混合も、静雄さん発案の順次混合方法により解決して1933年(皇紀2593年)に試作1号を完成させた。そして1936年に世界で初めて実用可能な酸素魚雷を完成させ、実戦部隊に正式配備された。この魚雷は試作完成が皇紀2593年だったので、年数の末尾2桁から「93式酸素魚雷」と命名された。
◆93式酸素魚雷の性能
この93式酸素魚雷は、当時の魚雷と比較すると桁違いの高性能を誇った。アメリカ軍のMk.15魚雷の性能は直径53cm・炸薬375kg・射程4500m/45ktだが、静雄さんが開発した93式酸素魚雷の性能は直径61cm・炸薬490kg・射程20000m/48kt(最大射程は40000m/36kt)と、約1.5倍の炸薬量と4倍以上の射程を実現し、さらに航跡がほとんど見えないため発見が困難という利点もあった。故に、この射程の長さと炸薬量により、敵戦艦の主砲攻撃圏外からアウトレンジ攻撃でき、かつ小艦艇でも戦艦並の攻撃力を持つことが可能となった。そしてこの高い性能に驚嘆した軍上層部は、93式酸素魚雷のことを「日本の3大兵器の一つ」「海軍が誇る伝家の宝刀」と称するようになった。
◆国防の要となった93式酸素魚雷
この93式酸素魚雷の攻撃力を重視した日本海軍は、93式酸素魚雷を使用してのアウトレンジ戦により敵艦隊を斬撃し、徐々に敵戦力を削いでいって、敵艦隊が弱ったところで戦艦同士の砲撃戦により勝利を収めるという戦略を定めた。つまり93式酸素魚雷は国防の要と位置付けられたのだ。しかし実際には、山本五十六の戦略転換により上記戦略は実施されなかったので、当初期待された93式酸素魚雷の活躍の機会は無くなった。だが、様々な海戦で使用され多大な戦果をあげている。



�A93式酸素魚雷の戦果
◆バリ島沖海戦
駆逐艦「大潮」の雷撃により、オランダ海軍駆逐艦「ピートハイン」を撃沈。
◆バタビヤ沖海戦
駆逐艦「春風」「旗風」「白雲」「叢雲」の雷撃により、オーストラリア海軍軽巡洋艦「パース」を撃沈。
◆スラバヤ沖海戦
重巡洋艦「羽黒」の雷撃により、オランダ駆逐艦「コルテノール」を撃沈。また巡洋艦3隻にも雷撃し損害を与えた。
◆第一次ソロモン海戦
重巡洋艦「鳥海」の雷撃によりオーストラリア海軍重巡洋艦「キャンベラ」を航行不能にし、アメリカ海軍重巡洋艦「シカゴ」「ヴィンセンス」を大破させた。さらに「ヴィンセンス」は軽巡洋艦「夕張」の雷撃により航行不能に陥った。
◆ルンガ沖夜戦
日本海軍の駆逐艦9隻の雷撃により、アメリカ海軍重巡洋艦「ノーザンプトン」を撃沈。同重巡洋艦「ペンサコラ」「ミネアポリス」「ニューオリンズ」を大破させた。
◆コロンバンガラ島沖海戦
軽巡洋艦「神通」の雷撃によりアメリカ海軍軽巡洋艦「リアンダー」を大破させた。また駆逐艦「三日月」「雪風」「浜風」「清波」「夕暮」の雷撃により、同駆逐艦「グイン」を撃沈。同軽巡洋艦「ホノルル」「セントルイス」を大破させた。
◆クラ湾夜戦
駆逐艦「涼風」「谷風」の雷撃によりアメリカ海軍軽巡洋艦「ヘレナ」を撃沈。
◆オルモック湾海戦
駆逐艦「竹」「榧」「樫」が雷撃により輸送船4隻を撃沈。さらに「竹」はアメリカ海軍の新型駆逐艦「クーパー」を撃沈させた。

このように多大な戦果をあげた93式酸素魚雷は、後には93式を改良した95式も開発され潜水艦用魚雷として配備されたり、残念ながら人間魚雷「回天」のベースとなった。また、信管の設定度合いにより不発・早爆するケースがあったものの、全体としては成果の方が大きかったと言えるだろう。
そんな酸素魚雷を開発した静雄さんは、成果を認められて1942年に海軍技術研究所に出仕、翌年には東大教授も兼任した。1944年5月には海軍技術少将に昇進し、1945年4月に艦政本部に出仕。同年9月、終戦に伴い予備役となっている。戦後は1953年から1973年まで三菱重工業の顧問を務め、1980年9月15日に亡くなった。

これは↓大和ミュージアムにある多分93式酸素魚雷。
けど先端に引掛けがあるから、もしかしたら91式航空魚雷かもしれない。
95式かも…。覚えてない。スンマセン。

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拾いものですが、2010/8/14に開催された[Red Bull Holy Ride]の映像です。

開催場所なんですが、なんとあの京都の石清水八幡宮!!

山頂にある境内の鳥居がスタート地点で、ふもとの鳥居がゴールとのこと。
詳細は→「神社境内でMTB Downhill Race!? Red Bull Holy Ride 」を見てね。


映像見た!?
これ、高知城でやりたくない?やりたいよね!!
石清水八幡宮よりは難度が著しく下がるし距離も短くなるけど、それでもおもろいと思うんだ!どう?



(゚ロ゚)/(゚ロ゚)/(゚ロ゚)/(゚ロ゚)/(゚ロ゚)/ハイハイハイハイ!!



はーい、賛成多数でそのうち開催ケテーイ!
今は龍馬伝の影響で無理だろうけど、観光効果が薄れるだろう再来年以降の閑散期にやりたいよね。
地元ライダーにとっては近場で楽しめるし、県外ライダーもライドした後すぐ観光に行けるし、チャリと関係ない一般人にとっても良い見せ物になって三方良しだと思うんだ。それに、レース目当てで来る人達(チャリに興味はないが何となく見に来た観戦者含む)が街に流れて行って商店街の活性化にも繋が(ったらイイナ~)ると思うし。うん、そう、あれだよ、観光振興の一環だよ!

観光振興の一環だからさー、やろうよ!
高知城よりも歴史的価値があるあの石清水八幡宮でさえレース開催を許可してんだから高知城だってやれば出来るっしょ。出来る出来るぅ~!




…ホンマ、誰かやってくれんかな (・ω・。)キョロキョロ(。・ω・)




お前がやれってか…




専稱寺跡「【三都物語2010:大阪】勝海舟の寓居(大阪海軍塾)跡」から南へ一つ通りを下がり西側へ入った辺りが、大和屋跡になる。

この大和屋は和菓子屋だったのだが、和菓子屋であると同時に、この周辺(南鍋屋町)の町会所の主でもあった。そのため公儀の御用を受け賜わる事もあったのか、幕府が神戸海軍操練所の開設準備のために派遣した者達の下宿所となった事がある。
そして、この大和屋に下宿した者のなかに坂本龍馬・近藤長次郎がおり、長次郎はこの大和屋の娘・徳と良い仲になってこの地で結納・結婚したそうだ。結婚は1863年9月某日に行われ、仲人を海軍塾の塾頭であった佐藤与之助が務めている。そして翌年の7月17日に長男・百太郎が生まれている。



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