2010年09月

我が家には乗らないチャーリー君やフレームがいくつかありまして、その中の1フレームは可哀相な事にお外でポツーンと見捨てられた野良犬のように放置されているんですわ。
んで、そいつには一応ブルーシートはかぶせてあるんだけど、さすがは大自然がウリの土佐の地、ブルーシートの内側には幾多の昆虫がこんにちは!しており、謎の植物もおい茂っておりやして、もうちょっと放置しとけばナウシカがやって来そうな状態でやんした。このまま放置するとオーム (((((( ・ω・) が出てきそう…。

つーこって、きれいに掃除して組み上げる事にしやした。まずはパーツをセレクト。パーツ買う金無いんで(つーか買うほどのフレームでもないし)手持ちのボロパーツを物色しやす。どれも汚れたまんまなんでキレイキレイしやす。
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リアメカのスイングアームのテンションが緩かったので、ばらしてスプリングのセット位置を変えやす。本当はスプリング自体を変えたいんスけど、もう入手出来ないだろうしね。しゃあないよね。位置変えてもテンション緩かったら新品のリアメカを買いますわ。
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ここで問題発覚!革サドルに土が染込んでる。 ; ̄ロ ̄)!!
とれるかどうか分かんないけど、乙女に絶賛大人気中のファーファでサドルを手洗いして様子見中。もし街中で、良いとこのお嬢さんを連想させる良い香りの自転車があったら、それはワシのだ。けっして持ち主を期待して待ち伏せなどしてはいけない。ワシが困るしアンタも困るはずだ。え?そっち側の方ですか? ( ̄ω ̄;)エートォ...

まあサドルは良いとしてチェーンが無い。メカやギアが昔のタイプで今主流のコンパクトドライブじゃないのよね。だから昔の幅広いチェーンは入手出来ないんじゃないかな。普通のチェーンって今売ってるんか?もしかしたら安物用に造ってるかな?

お次はステムが短い。乗れないわけじゃないから良いけど、も少しリーチの長い奴が欲しいね。家のどっかにあるはずなんだけど…。

ミドルのギア板が無い。これは買わなしゃあないか。それかシングル化するか? いや色んな用途に使いたいからシングル化は無し。やっぱ買おう。

サイズに合うBBが無い。これも買わなしゃあないよね。

フロントメカが無い。これも買わな…、あ、BBと一緒にセットするタイプのフロントメカ買えばBB新調しなくて済むじゃん。つーこって、そのタイプのフロントメカを買うぞ。

えーと、買わないかんのは、BBハンガーに引掛けるタイプのフロントメカと、チェーンと、各種ワイヤーとグリップか。
それ買うまで作業中止! 昼ビールはうまいぜ!!!!!!
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現・鷹匠町に麻田勘七の剣術道場があったそうだ。

麻田勘七は馬廻役・麻田利太夫の次男で、小野派一刀流の使い手。その腕を買われて藩校・致道館の剣術指南役に推挙され、多くの土佐藩士に小野派一刀流を伝授している。門弟になった者も多数おり、有名な者としては、後に土佐勤王党の首領になる武市半平太や、天皇親政派の重鎮となる佐々木高行「」、岡田以蔵と共に京で暗躍した島村衛吉、井口事件を起こす山田広衛、龍馬と親交のあった毛利荒次郎などがいる。

道場は鷹匠町にあったと言われているが1865年頃の古地図を見てみると麻田勘七という名の家や道場は見当たらない。だが麻田の弟子である島村は1856年に免許皆伝を受けている事からこの年までは道場はあったはずだ。ということは1856年から1865年の約10年間に引っ越したか代替わりしたと考えられる。
仮に引っ越しておらず、没したか隠居により代替わりしたなら1965年頃の古地図にある鷹匠町の麻田家が勘七邸の可能性が高いんだけど、該当する麻田家は麻田楠馬しか無く、ここが旧・勘七邸だと考えられる。楠馬邸以外にも周囲に麻田姓の家はあるものの、城西公園の北西辺りに1軒(麻田惣八)と、福岡孝弟邸の裏に1軒(麻田永次郎)、そして枡形に1軒(麻田文左衛門)と鷹匠町から離れている事から該当せず、やはり楠馬邸があやしい。

案外、勘七=楠馬なのかと思ったが、この楠馬は「新おこぜ組」の一人である事から半平太と同年代になるので師弟関係にはなりにくく可能性は少ない。というか楠馬の父が勘七であって代替わりにより勘七邸=道場→楠馬邸になったと考えればスッキリする気がする。そしてもしこの憶測が当たってるなら、現・第6小学校付近に麻田楠馬の邸宅があったので(ここ↓が邸宅跡)、そこが麻田勘七の道場跡だと言える(もちろん引越しておらず楠馬が子息であり楠馬に代替わりしたのを前提にした憶測だから可能性はほとんど無い)。
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ちなみに、もしこの憶測が当たってたなら勘七さんは悲劇を見ることになります。と言うのも、麻田楠馬は吉田東洋の門弟集団である新おこぜ組の一員であり、東洋暗殺事件が起こると大監察の一人として武市半平太を取り調べているんです。自分の剣術の弟子を取り調べたのが自分の子供だったとすると、複雑な心境になったでしょうね。


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廿代橋を高知駅方向に向かって渡って左に入り、数メートル進んだ辺りが寺田小膳の邸宅跡になる。

寺田小膳は幕末の土佐藩士。上士ではあるがその中では中級の武士で、剣術に優れていたようだ。小膳は大石神影流を習っていたようで、片岡健吉の日記に小膳と小膳の弟である忠次とともに大石神影流剣術を稽古した(小膳や忠次達から指導を受けていた?)事が記載されている。小膳の弟である忠次も大石神影流の使い手であり、藩校・致道館で剣術指南役を務め、一説では吉田東洋の剣術の師も務めていたそうだ。
ちなみに藩校・致道館では様々な武術が伝授されており、居合術は英信流「英信流居合 第9代・林六太夫の墓」の谷村亀之丞が、柔術は小栗流の平尾作内・日根野弁治「日根野道場跡」が、剣術は無外流の都治亀五郎・新陰流の美濃部団四郎・小野派一刀流の麻田勘七・そして大石神影流の寺田忠次が指南役を務めている。

※大石神影流
大石神影流は、大石進から免許皆伝を受けた土佐藩士の樋口真吉・甚内兄弟が藩内に伝えたそうだ。そして真吉が書いた文久3年2月26日の日記に「寺田小膳航海術修業のために江戸に行く」という記載があるので小膳と面識があった事がわかる。もしかすると寺田兄弟は樋口兄弟の弟子だったのかもしれない。
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高知城の北東、愛宕町の近くに小南五郎右衛門の生誕地碑がある。

小南五郎右衛門は幕末の土佐藩士。水戸藩の藤田東湖に「古大臣の風格あり」と評されるほど謹厳実直な性格だったそうだ。そんな性格のため山内容堂の側用人になった際に、遊興三昧していた容堂の性根を正そうと説教した事があるらしい。側用人の後に大目付になるが、上士でありながら武市半平太率いる土佐勤王党を、平井善之丞・斎藤利行「斎藤利行の邸宅跡」・佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」・谷干城「【土佐の偉人�J】谷干城:熊本城籠城戦」・土方久元「土方久元の生家跡」・家老である深尾鼎(領内の田中光顕や片岡利和「【土佐の偉人�Q】片岡利和:新撰組と斬り合った!」といった攘夷志士を弾圧せずに親類預けで済ませている)らとともに支援したため、容堂の怒りを買い失脚した。

維新後は高知藩権大参事などを務めているが、堺事件の際には深尾鼎とともに大阪に出向き、事件に関与した土佐藩兵29名に処置を伝えている。小南は大阪の土佐藩邸に赴き、謹慎していた藩兵に「29名のうち20名が切腹しなければならない。しかし誰が切腹するかは決めかねる。そこで土佐稲荷神社に参って神託を頂き、クジ引きによって決める」と述べ、土佐稲荷神社「【三都物語2010:大阪】土佐稲荷神社(堺事件ゆかりの地)」に移り、境内で小南がなりゆきを見守る中クジ引きをさせ、箕浦猪之吉「箕浦猪之吉の生誕地:ハラキリを世界に知らしめた人」ら切腹する藩兵20名を決めた。翌日、小南は20名とともに堺・妙国寺「土佐藩十一烈士ゆかりの地・妙国寺」に移り切腹を見届けている(11名切腹し9名は容赦)。

生誕地を示す石碑は小川の前に建てられているが、古地図を確認すると、実際の生誕地はこの碑のある道を挟んだ反対側のここら辺↓にあったようだ。ちなみに生誕地碑のある場所の裏側には、上士である手嶋家の屋敷「大川筋武家屋敷�@」があって当時の武家屋敷を見ることができ、その西隣は小笠原唯八の邸宅跡「小笠原只八の生誕地」、東に数軒進んだところは斎藤利行の邸宅跡(旧名・渡辺弥久馬)「斎藤利行の邸宅跡」になる。観光の際には一緒にどうぞ。
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城下側から中の橋を渡ってすぐ左に入った辺りが、斎藤利行(旧名・渡辺弥久馬)の邸宅跡になる。

斎藤利行は幕末の土佐藩士。若くして山内豊煕に仕えるが、おこぜ組に加わったことから反対派により失脚させられ、後に吉田東洋の知遇を得て復職し近習目付→上士銃隊総練教授→参政となる。しかし土佐勤王党を支援していたため、佐幕派に転向した容堂により解任させられる。
だが後に再度復職し最終的には家老にまで上り詰め、イカロス号事件の際には後藤象二郎とともにイギリス公使パークスと須崎砲台沖「土佐藩須崎砲台跡」で交渉したり、坂本竜馬がライフル調達を企てた際には佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」と協力し、森権次「森権次の邸宅跡」達とともに吸江寺「「海南の名刹」吸江寺」で密談するなど、幕末の重要な出来事に少なからず関与し功績を残している。元々の録高は50石程度だったのに家老になるとは大出世したと言えるだろう。
維新後は新政府に仕えるものの病を患い帰郷する。高知では、在京の佐々木から立志社の土佐挙兵計画の切り崩しを依頼され、これに尽力。同計画を頓挫させている。
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