2010年10月

ジャパンカップの動画を見てたら見つけました。

いわゆる痛チャリですが、みんな色んな意味でスゴイっすね。
まあ、何も言わずに↓見て下さい。つべにリンクしてます。
ジャパンカップサイクルロードレース2010で見かけた痛チャリ軍団
アニメの絵自体は引かれるだろうけど、カラーリングはすっげえセンス良いと思う。




ところで、あれに出てきたラムちゃん(?)と、アスカ(オルベア)と、ミク(ビアンキ)って、痛チャリコンテストに出てたこれ↓だよね。普通に乗ってんだ。すげえ。ワシなら高知じゃ恥ずかしくてよう乗れんわ。県外で知り合いがおらんとこなら乗れるだろうけど。
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土佐市新居に細木庵常の没後150年記念祭の碑がある。

庵常は、新居・野市・諸木・伊野などで庄屋を務め、谷真潮「谷垣守・真潮の邸宅跡」の弟子である今村楽に南学を学んだ人。そして楽から学んだ南学を基に庄屋同盟を締結し、後に藩内において尊王攘夷運動が醸成されるきっかけをつくった人である。ここで恐らく、多くの方が「なぜ尊王攘夷に庄屋同士が結んだ同盟が関わるのか?」と思われるだろう。そこでまず、土佐における庄屋の地位・権力と、それに関わるある事件を以下に説明する。
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まず土佐における庄屋の権力は、庄屋の多くが元々は長曾我部家の家臣だった事や、藩に変わって村を統治できる事を理由に、ある程度保障されていた(例えば、郷士「慶長郷士」を召抱えたり、村の代表者として藩に変わって全権を行使した)。次に地位については士農工商制に従い、武士の支配下に郷庄屋(農村の庄屋)・浦庄屋(漁村の庄屋)・町役(町方の長)という地下役人が置かれ、それぞれの地位は上から郷庄屋・浦庄屋・町役の順に定められて、地下役人における庄屋の地位は高いものだった。
しかし商人が富を持つようになると、商人は金にものを言わせて貧乏郷士から郷士株を買いとって郷士になり、地下役人としては庄屋の支配下にあるが、士農工商的には庄屋を支配するという立場になる。さらに藩が慶長郷士を藩直属にするよう制度変更して庄屋から取り上げたり、公用文書を庄屋に渡さないようになって庄屋の権力を低下させた。このため庄屋の地位・権力は実質的に下がり、以後もこの体制は続いて庄屋達は我慢のなか暮らした。
だが約200年後のある日、庄屋達の堪忍袋の緒が切れる事件が起きる。伊都多神社「伊都多神社:産土神の姉妹がケンカって「かんなぎ」じゃん」の祭礼で、商人・町役が地下役人の地位序列を無視し庄屋の上座に座ろうとしたのだ。祭礼自体は「商人・町役の分際で庄屋の上座に座ろうとするとは何事か!」「我らは武士なので庄屋よりも地位は上。上座に座って何が悪い!だいたい金も力も無い癖に何を言うか!」と言い争う双方を何とか落ち着かせ済ませたが、この事件をきっかけにある事が起きる。庵常が中心となって庄屋同盟を締結したのだ。
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伊都多神社の話を聞いた庵常は、庄屋の地位改善を目的に、土佐・吾川・長岡郡の庄屋達に声をかけ52箇条からなる同盟談話条々を結ぶ。その内容を5つにまとめると、�@庄屋とは昔の「天邑君」に当り、古より天皇によって任命された神聖職分である。�Aその神聖職分である庄屋の仕事は、天皇と天皇の宝である百姓との間に立ち、両者の関係を繋ぐ事である。�B武家などは浮世の都合で出来たものに過ぎず、藩主、将軍と言えども本来天皇の仕事を代行しているに過ぎない。�Cよって、武家に極悪非道な仕打ちを受けている百姓が庄屋に助けを求めてきた際には、これを助け武家に引き渡さない。�D庄屋に対して極悪非道な仕打ちを行う武家にも対抗する、と言うものであった。
この内容を見てお気付きだろうが、庄屋同盟は南学思想に基づいて結ばれた同盟である事に気付く。全ての人間は天皇の臣でありその点で皆同じであると唱える点や、漠然とした「あるべき論」だけではなく具体的な「実践施策」でもある点はまさに南学の特徴であった(※1)。庄屋同盟は南学者である今村楽に学んだ庵常だからこそ出来た事であろう。
そしてこの南学思想に基づき締結された庄屋同盟は→「庄屋・農民vs武家・商人」になり、後の尊王攘夷運動に繋がる。例えば須崎の浦庄屋だった吉村虎太郎は、郡奉行の郷廻役に呼び捨てされた事から憤慨し、他の庄屋と連署で抗議文を奉行所に送りつけ、後に土佐勤王党に入党した。同じく庄屋であった中岡慎太郎も「農民有ってこそ国が栄える」と領主に訴え、後に土佐勤王党に入党した。また城下付近(井口・小高坂・潮江・江ノ口)の庄屋達が身近に町役や豪商が多くいたため危機感を感じるようになると、その影響を受けた庄屋の子息とその友人達が土佐勤王党に入党している。

(※1)
ここで「南学ではなく国学や心学の誤りではないのか?」と思われるだろうが、南学は国学や心学よりも早く両思想に似た思想を主張しており、また其の為に両思想を受容しやすかったため、江戸中期以降には両思想が混ざった南学者、もしくは南学の混じった国学を論じる国学者がいたようだ。このため土佐の思想家には学派に関わらず南学思想が混じっている者が多いようだ。
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ちなみに先ほど、庄屋同盟は→「庄屋・農民vs武家・商人」になり後の尊王攘夷運動に繋がる、と述べたが、より詳細に言えば、庄屋同盟→「庄屋・農民vs武家・商人」→「庄屋・郷士・農民vs上士・商人」→「尊王攘夷派vs土佐藩」と発展した。
この過程の中で郷士が庄屋側に付いた理由として、元々は庄屋が長曾我部の家臣だった事と、郷士の地位改善がある。すなわち郷士は、元々は自分と同じ長曾我部の家臣だった庄屋が、庄屋同盟により武家や商人に対して地位改善を訴えるとそれに影響を受け、庄屋と同じく貶められていた自分の地位を向上させるために(郷士は山内家の支配下に置かれており、かつ自分より低身分であるはずの町人が郷士株の購入により自分と同身分になった)、庄屋側に付いたのだ。
このように土佐での尊王攘夷運動は、庄屋同盟をきっかけに起こり、それに触発された郷士や農民が団結した事により醸成され起こった。そしてこの団結を実現する媒体となったものが土佐勤王党である。


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土佐市のJA?の前に、中島与市郎の生誕地がある。

与市郎は1842年に地元の老役も務める郷士・中島曽平の子として生まれた。土佐勤王党に入り、1864年11月20日にいとこであり信行と名を変える前の中島作太郎「【土佐の偉人�P】中島信行:海援隊の若手三羽ガラス」と、村の庄屋の子である細木核太郎と共に脱藩するが、途中で追っ手に会い捕吏に囲まれ自刃している。
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自害した与市郎の遺体は、生誕地の裏にある山に葬られた。
この碑↓の横に山に登る道があり、その道を登っていくと墓がある。
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江戸時代中期、今の城西公園の横に、南学者である谷垣守・真潮親子の邸宅があった。
この親子の尊属である谷秦山「谷秦山の邸宅跡と墓」は南学中興の祖で、その子孫である垣守・真潮親子は秦山が再興した南学を継承し多くの弟子を育て、その弟子たちが後に土佐藩内に尊王思想を醸成させた。この尊王思想の起源となる南学を後世に繋げた点で、垣守・真潮親子は、時代は違い直接関係してはいないけれども、尊王攘夷運動の功績者だと言えるだろう。
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谷垣守は1697年に秦山の長男として生まれた。鍋山、丹四郎とも称す。秦山に南学を学び、さらに秦山の兄弟弟子である三宅尚齋から南学を起源の一つに持つ崎門学を学んでいる。父の秦山が第6代藩主・山内豊隆に冤罪で処罰されたため南学が衰退するが、第8代藩主・山内豊敷の治世には復興しており、垣守は北会所の講師として登用され藩士に講義を行った。1752年3月30日に55歳で亡くなっている。

谷真潮は1726年に垣守の長男として生まれた。北溪、子鹽、丹内とも称す。垣守に南学を学んだ。
第8代藩主・豊敷の治世に藩校・教授館の講師となり、第9代藩主・山内豊雍の治世には自身の弟子である久徳直利らとともに、相次ぐ騒動の解決や藩政改革にも取り組んでいる。1797年10月17日に71歳で亡くなっている。ちなみに真潮の弟に採薇(伴兄、好井、萬六)がおり、採薇の第四子が九淵(景井、萬七)で、九淵の子が熊本城籠城戦で有名な干城(隈山、守部)「【土佐の偉人�J】谷干城:熊本城籠城戦」である。

ところで、谷時中「谷時中の墓(清川神社)」や秦山「谷秦山の邸宅跡と墓」の項で詳しく述べたが、南学は苦難の歴史を歩んできた。だがそれは垣守・真潮親子の時代に終わり、今度は継承・普及・醸成の道を歩む事になる。
そのきっかけとなったのが、家老・山内規重や泰山を処罰した第6代藩主・山内豊隆の逝去と規重の復権である。すなわち、豊隆の逝去によりその子・山内豊常が第7代藩主になるのだが、豊常が当時10歳だったため蟄居中の規重が後見役として復権し、南学を再度復興させたのである。規重が南学を復興させた理由として、自身が秦山の弟子として南学を修めており、後に秦山とともに淺見絅齋にも学んだ人物だからという事があるだろう。そのため規重は、本当は秦山を復職させたいのだろうが罪が許されないため、代わりに秦山の兄弟弟子である三宅尚斎を京から招いて豊常の侍講とし、南学が起源である崎門学を学ばせ、異学が入らないよう配慮した。
豊常の次代藩主・山内豐敷も同様であった。藩主になった豐敷は尚斎に崎門学を学び、垣守や、秦山に学んだ後に垣守とともに尚齋から学んだ宮地静軒らを北会所の講師として登用し、南学の普及を行わせた。さらに後には真潮を教授館の講師として登用し、藩士に講義を行わせている。
豐敷の次代藩主・山内豊雍も同様である。このころ藩は財政難であり、さらには天明の大飢饉の影響から農民一揆や打ちこわしが起きていた。相次ぐ騒動に直面した豊雍は、真潮、真潮の弟子である久徳直利らに事態対処をさせ、また藩政改革を行わせている。

このように秦山以降の南学は、藩上層部の先導により保護・継承・普及され藩内に広まった。
そして真潮後の南学は、彼の弟子である宮地仲枝(秦山の弟子である宮地静軒の孫)や今村楽などに継承され、庄屋同盟→尊王攘夷運動の起源となる。この詳細はそのうち…。



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香美市にある秦山公園の北東側に、谷秦山の邸宅跡と墓がある。
秦山は、谷時中により確立され野中兼山や山崎闇斎以降に途絶えた南学「谷時中の墓(清川神社)」を復興させた人物。この南学が後に尊王攘夷思想の起源になる事から、時代は違い直接関与してはいないものの、秦山は尊王攘夷・明治維新の功績者だと言えるだろう。
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秦山は1663年3月11日、南国市にある岡豊八幡宮の宮司の三男として生まれた。重遠、丹三郎とも称す。9歳の時に四書を学び、17歳で上京して山崎闇斎の弟子になるが、闇斎が没したため兄弟弟子である浅見絅斎に学んだ。しかし絅斎は儒学者によく見られる中国崇拝および普遍主義を重視していたため、宮司の家に生まれた秦山はそれを快く思わず、厳しく批判する。そして秦山は徹底した日本主義を主張すると同時に、義理名分と実践主義を重視し且つ闇斎思想の起源である南学に傾注するようになってこれを継承、土佐に帰郷した。ちなみに絅斎は後に、著書『 靖献遺言 』の執筆編纂をきっかけに、中国崇拝・普遍主義を改めている。
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土佐に帰郷した秦山だったが、当時の土佐藩は、南学者でもあった野中兼山の失脚と、さらに第3代藩主・忠豊による古義学者・緒方宗哲の招聘により南学は衰退していたため、秦山は高知城下で私塾を開くことになる。ところが塾を開いてみると思いのほか多くの者が集まり大繁盛。多くの弟子を抱える事になった。その中には後の家老・山内規重や、野中兼山の三男である野中繼業、野中兼山の娘であり日本初の女医である野中婉、その他にも家老職を務める乾家や安東家の縁者もいた。
一度は衰退した南学だったが、この秦山塾の繁盛を聞き及んだ第5代藩主・山内豊房が泰山を登用し、南学が再興する。彼の治世は風水害や火災が相次ぎ、また藩財政が悪化していたため、実践重視の南学を政治の基本に据える事にし、泰山を登用したのだ。豊房の命により、秦山は南学を藩内にいっそう奨励する事になり、政治実務には秦山の弟子であり家中の人望が厚かった規重が奉行として登用され藩財政改革を担った。南学の再興である。
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しかし次代の藩主であり、土佐藩随一の暗君と言われている山内豊隆が、規重や泰山を冤罪で処罰。規重は山北村に蟄居を命ぜられ失脚し、秦山も山田に蟄居となって1718年6月30日に56歳で罪人の汚名を濯がぬまま没した。再び訪れた南学存続の危機である。南学が再度復興するのは、豊隆が逝去し、蟄居中の規重が次代藩主・豊常の後見役として復権するのを待たなければならない…。
ちなみに秦山にかけられた冤罪は、ついに藩は免除しなかったものの、約150年も後に皇室から免除が命ぜられ正五位が贈られている。
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↑宮内大臣・田中光顕の筆による公徳之碑。
内容の一部を抜粋・要約すると「我が国を豊かにし栄華をもたらしたのは、四散した南学を独力で復興した谷秦山先生その人のおかげであった」とある。まったくその通りである。幕末、日本が外圧に迫られた際、これに対処して明治維新を成し遂げ日本を守り豊かにしたのは、尊王攘夷・明治維新を担った尊王志士達であった。そして土佐の尊王志士が拠所とした思想は南学であった。これらの事から南学は、尊王攘夷・明治維新の真の源となった思想であると言えよう。この話はそのうち…。


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