2010年12月

堺町の電車通り沿いに中山高陽の生誕地がある。

高陽は1717年生まれの南画家・書家・漢詩人で、豪商・阿波屋勝久の次男として生まれた人。江戸に南画を伝え、後に門弟を通じて谷文晁が江戸南画を確立する事から、日本画壇の発展に寄与した事大として高い評価を受けている。
299f01d5.jpg

高陽は幼少より聡明で、儒学(南学)と漢詩を谷垣守「谷垣守・真潮の邸宅跡」の兄弟弟子である宮地靜軒の弟子・富永惟安に学び、書を細井広沢の弟子・関鳳岡に、画を南画の先駆者である彭城百川に学んでいる(ちなみに惟安の兄弟弟子に深尾氏の家政をつかさどり初代文武頭取として侍講役をつとめた恩田敬休がおり、その弟子・山本日下の弟子である入交幽山の弟子が廣井喜十郎で、彼の長男が函館をはじめとする北海道の港湾を整備した廣井勇である)。
1758年頃に土佐藩の御用絵師となり、1761年に藩より三人扶持を給せられ名字帯刀を許されると、著名な文人墨客と盛んに交流するようになりその腕を磨いて、井上金峨の賛・沢田東江の書・高陽の画を合わせて「三絶」と評されるほど江戸庶民の人気を得るようになる。しかし1780年4月16日、大阪から土佐に帰る途中の船中で客死。享年64歳。


↓ポチッとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 高知県情報へ
にほんブログ村




タイトルは誤植じゃないですよ。



嫌味です(笑)
(・ω<) てへぺろ☆



今は撤去されてありませんが、15年ほど前まで左行秀の邸宅跡「左行秀の寓居跡」には、それを示す石碑が建てられていました。石碑が建てられていたのは確か写真に写っている歩道の中央辺りだったような気がします。石碑の横には郵便ポストがあり、数年間は石碑の建立跡もはっきり残っていたため、撤去後も数年間は「むかし石碑がここにあったんだな」という事が分かりました。ですが今はポストも撤去され、かつ道路整備もされたため建立跡も消えてしまい、どこに石碑が建てられていたのか全く分かりません。
c3589ec0.jpg

石碑の撤去理由は、市が財政難を理由に石碑を競売にかけ売る事にしたから。
競売にかけられた石碑は落札され、今はとあるご家庭の沓脱石になっているそうです。
なんだか左行秀が踏まれてるような気分です。

市内から春野方向に向かって国道56号を進むと、国道沿いのとある場所に南学発祥地を示す石碑がある。

南学とは、日本の尊王攘夷運動の起源となった水戸学の基礎をつくり、また土佐の尊王攘夷運動の起源にもなった思想で、その起源は土佐で朱子学を講義した南村梅軒にあると言い伝えられている。そして、その南村梅軒が講義を行った講堂跡とされる場所に、この石碑が建てられている。
3f889d0f.jpg

南学の系譜は、室町時代末期に土佐で朱子学を講じた南村梅軒から始まるらしい。梅軒の後は吸江庵の忍性、宗安寺の如渕、雪蹊寺の天質などが教授するようになり、後に天質の弟子である谷時中「谷時中の墓(清川神社)」が江戸時代初期に南学の学風を固め、海南学派、土佐南学と呼ばれるようになった。
時中以降は、時中の子・谷一斎「谷一斎と瀬戸新田」達が排斥され、また弟子の山崎闇斎「【三都物語2010:京都】土佐藩本陣跡&土佐藩初代藩主夫妻の霊廟」も南学と神道を合わせた垂下神道を提唱し南学から離れたため一端途絶するも、闇斎の弟子であった谷秦山「谷秦山の邸宅跡と墓」が復興させた。ここで注目したいのが、闇斎が南学を基に創始した儒学の一派である崎門(敬義)学の系譜と、秦山が引き継いだ南学の系譜である。実は両系譜が後の尊王攘夷運動の起源となっているのである。

まず秦山以降の南学の系譜を見よう。秦山は闇斎没後に帰郷して高知城下で塾を開き、南学や国学(儒教の中国崇拝・形式主義を批判し、日本独自の文化・思想を日本の古典のなかに見出す学問。儒学の中国崇拝・形式化を批判し、日本主義を主張した点で南学に非常に似た学問である)を土佐に教え広めた。秦山の後は、その子である谷垣守から孫の谷真潮「谷垣守・真潮の邸宅跡」に受け継がれ、さらに真潮は宮地仲枝や今村楽を育てた。
そして仲枝の弟子には鹿持雅澄がおり、雅澄は甥であり後に土佐勤王党の首領となる武市半平太や佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」を教え、また楽は後に庄屋同盟の指導者となる細木庵常「細木庵常の記念碑」を教えた。庵常の指導により締結された庄屋同盟は土佐勤王党の結成を促し、また秦山以降続いた藩校等での南学・国学の教授は上士に尊王攘夷思想を受容させる土壌となったため土佐勤王党と反吉田東洋派の協力を促し、その結果、土佐は「一藩勤王」の名のもと藩をあげて尊王攘夷運動を行い、薩長と並んで尊王攘夷運動を牽引することとなった。

次に闇斎が提唱した敬義学(崎門学)の系譜を見よう。闇斎の弟子には優秀な者が多数いるが、その中でも2人、すなわち後に水戸藩に仕えて「大日本史」の編纂に参与した闇斎の直弟子である鵜飼錬斎と、同じく闇斎の直弟子である浅見絅斎の弟子で、後に水戸藩に仕え「大日本史」の編集に参与し史館総裁になった三宅観瀾に注目する。両者は共に「大日本史」の編纂に取り組んだが、この書物は天皇家の歴史書であり、この書から日本の歴史・在り方を学ぶ前期水戸学が誕生した。そして前期水戸学は幕末に、藤田東湖や会沢正志斎らによって国学思想が加えられ尊王思想が強く説かれる後期水戸学へと発展し、さらにこの後期水戸学は全国の藩校で教えられ、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとする尊王の志士に影響を与えたため、尊王攘夷思想の起源と呼ばれるようになった。
ここで注意してほしいのは「尊王攘夷思想の起源は水戸学にある」と言われているが、水戸学の起源が敬義学にあり、敬義学の起源が南学にある事を考えると、水戸学の真の起源は南学にあると言え、実は尊王攘夷思想の真の起源は南学にあると言える事だ。

以上から、明治維新とそのきっかけとなった尊王攘夷運動の起源は南学にあると言えるだろう。
幕末、藤田東湖は土佐に招かれ水戸学を教授しているが(この際に小南五郎右衛門「小南五郎右衛門の生誕地」)は東湖に「古大臣の風格あり」と評された)、これは南学を逆輸入したようなものだ。土佐は自前の南学と、南学が発展した水戸学の逆輸入により尊王攘夷運動を活発にし、明治維新の原動力の一大勢力となったと言えるだろう。


↓ポチッとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 高知情報へ
にほんブログ村






↑このページのトップヘ