堺町の電車通り沿いに中山高陽の生誕地がある。
高陽は1717年生まれの南画家・書家・漢詩人で、豪商・阿波屋勝久の次男として生まれた人。江戸に南画を伝え、後に門弟を通じて谷文晁が江戸南画を確立する事から、日本画壇の発展に寄与した事大として高い評価を受けている。

高陽は幼少より聡明で、儒学(南学)と漢詩を谷垣守「谷垣守・真潮の邸宅跡」の兄弟弟子である宮地靜軒の弟子・富永惟安に学び、書を細井広沢の弟子・関鳳岡に、画を南画の先駆者である彭城百川に学んでいる(ちなみに惟安の兄弟弟子に深尾氏の家政をつかさどり初代文武頭取として侍講役をつとめた恩田敬休がおり、その弟子・山本日下の弟子である入交幽山の弟子が廣井喜十郎で、彼の長男が函館をはじめとする北海道の港湾を整備した廣井勇である)。
1758年頃に土佐藩の御用絵師となり、1761年に藩より三人扶持を給せられ名字帯刀を許されると、著名な文人墨客と盛んに交流するようになりその腕を磨いて、井上金峨の賛・沢田東江の書・高陽の画を合わせて「三絶」と評されるほど江戸庶民の人気を得るようになる。しかし1780年4月16日、大阪から土佐に帰る途中の船中で客死。享年64歳。
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高陽は1717年生まれの南画家・書家・漢詩人で、豪商・阿波屋勝久の次男として生まれた人。江戸に南画を伝え、後に門弟を通じて谷文晁が江戸南画を確立する事から、日本画壇の発展に寄与した事大として高い評価を受けている。

高陽は幼少より聡明で、儒学(南学)と漢詩を谷垣守「谷垣守・真潮の邸宅跡」の兄弟弟子である宮地靜軒の弟子・富永惟安に学び、書を細井広沢の弟子・関鳳岡に、画を南画の先駆者である彭城百川に学んでいる(ちなみに惟安の兄弟弟子に深尾氏の家政をつかさどり初代文武頭取として侍講役をつとめた恩田敬休がおり、その弟子・山本日下の弟子である入交幽山の弟子が廣井喜十郎で、彼の長男が函館をはじめとする北海道の港湾を整備した廣井勇である)。
1758年頃に土佐藩の御用絵師となり、1761年に藩より三人扶持を給せられ名字帯刀を許されると、著名な文人墨客と盛んに交流するようになりその腕を磨いて、井上金峨の賛・沢田東江の書・高陽の画を合わせて「三絶」と評されるほど江戸庶民の人気を得るようになる。しかし1780年4月16日、大阪から土佐に帰る途中の船中で客死。享年64歳。
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