幕末、福岡孝悌の邸宅の裏斜め北側には、
150石の御馬廻役で、新おこぜ組の一人とも言われている由比猪内直春の邸宅があった。

由比は1819年に山田孫右衛門清道の三男として生まれた。後に由比家の養子に入り由比猪内直春となる。新おこぜ組の一人で、吉田東洋の横死に伴う藩庁改革では御側御用役をはずされた。しかし由比は他の進おこぜ組のメンバーが出世していたように、1867年頃には京都土佐藩邸に詰めるほど復権していた様で、その際に薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通、土佐藩の後藤象二郎・寺村左膳「寺村左膳の邸宅跡」・真辺栄三郎・福岡孝悌、仲介人の坂本龍馬・中岡慎太郎により締結された薩土盟約「【三都物語2010:京都】薩土盟約の締結の地」の締結内容について、佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」とともに内容を確認している。
また、同年7月6日に発生したイカルス号事件の際には、坂本と佐々木とともに薩摩藩船・三邦丸を借用して京から帰郷。パークスとの交渉役に選ばれた後藤の支援を、後に斎藤利行と改名する渡辺弥久馬「斎藤利行の邸宅跡」等と共にしている。
ちなみに、河田小龍の手引きで近藤長次郎「近藤長次郎の生誕地碑」を下僕として雇ったのもこの由比であった。由比の下僕になった長次郎は、由比と共に江戸に赴き遊学をし、それをきっかけに武士に登用された。由比が家柄よりも能力を重視する新おこぜ組のメンバーだったからこそ、商人の長次郎を雇い江戸遊学を許可したのだろう。そう考えると由比は、長次郎が武士になり後に活躍できるようになるきっかけをつくった恩人であると言えるだろう。
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150石の御馬廻役で、新おこぜ組の一人とも言われている由比猪内直春の邸宅があった。

由比は1819年に山田孫右衛門清道の三男として生まれた。後に由比家の養子に入り由比猪内直春となる。新おこぜ組の一人で、吉田東洋の横死に伴う藩庁改革では御側御用役をはずされた。しかし由比は他の進おこぜ組のメンバーが出世していたように、1867年頃には京都土佐藩邸に詰めるほど復権していた様で、その際に薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通、土佐藩の後藤象二郎・寺村左膳「寺村左膳の邸宅跡」・真辺栄三郎・福岡孝悌、仲介人の坂本龍馬・中岡慎太郎により締結された薩土盟約「【三都物語2010:京都】薩土盟約の締結の地」の締結内容について、佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」とともに内容を確認している。
また、同年7月6日に発生したイカルス号事件の際には、坂本と佐々木とともに薩摩藩船・三邦丸を借用して京から帰郷。パークスとの交渉役に選ばれた後藤の支援を、後に斎藤利行と改名する渡辺弥久馬「斎藤利行の邸宅跡」等と共にしている。
ちなみに、河田小龍の手引きで近藤長次郎「近藤長次郎の生誕地碑」を下僕として雇ったのもこの由比であった。由比の下僕になった長次郎は、由比と共に江戸に赴き遊学をし、それをきっかけに武士に登用された。由比が家柄よりも能力を重視する新おこぜ組のメンバーだったからこそ、商人の長次郎を雇い江戸遊学を許可したのだろう。そう考えると由比は、長次郎が武士になり後に活躍できるようになるきっかけをつくった恩人であると言えるだろう。
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