2011年03月

幕末、福岡孝悌の邸宅の裏斜め北側には、
150石の御馬廻役で、新おこぜ組の一人とも言われている由比猪内直春の邸宅があった。
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由比は1819年に山田孫右衛門清道の三男として生まれた。後に由比家の養子に入り由比猪内直春となる。新おこぜ組の一人で、吉田東洋の横死に伴う藩庁改革では御側御用役をはずされた。しかし由比は他の進おこぜ組のメンバーが出世していたように、1867年頃には京都土佐藩邸に詰めるほど復権していた様で、その際に薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通、土佐藩の後藤象二郎・寺村左膳「寺村左膳の邸宅跡」・真辺栄三郎・福岡孝悌、仲介人の坂本龍馬・中岡慎太郎により締結された薩土盟約「【三都物語2010:京都】薩土盟約の締結の地」の締結内容について、佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」とともに内容を確認している。
また、同年7月6日に発生したイカルス号事件の際には、坂本と佐々木とともに薩摩藩船・三邦丸を借用して京から帰郷。パークスとの交渉役に選ばれた後藤の支援を、後に斎藤利行と改名する渡辺弥久馬「斎藤利行の邸宅跡」等と共にしている。

ちなみに、河田小龍の手引きで近藤長次郎「近藤長次郎の生誕地碑」を下僕として雇ったのもこの由比であった。由比の下僕になった長次郎は、由比と共に江戸に赴き遊学をし、それをきっかけに武士に登用された。由比が家柄よりも能力を重視する新おこぜ組のメンバーだったからこそ、商人の長次郎を雇い江戸遊学を許可したのだろう。そう考えると由比は、長次郎が武士になり後に活躍できるようになるきっかけをつくった恩人であると言えるだろう。


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高知城の西側、現・県立武道館のある場所には、土佐藩の藩校・致道館があった。

この致道館、時の参政・吉田東洋が藩主・山内豊範の命により設立した藩校で、生徒には厳しい校則が課せられていた。例えば御馬廻役以下の16~22才の者は月に20日、23~29才は月に15日通うことが義務付けられ、病気・事故以外の欠席は許されなかったのだ。この厳しい教育のお陰で土佐から多くの偉人が輩出されたのだろう。
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この致道館、さすが藩の肝煎りで創設しただけあって充実している。敷地面積9180坪、建坪1390坪、伴宮・時習寮・養正寮・兵学寮・天学寮・洋学寮・演武館・馬場・弓場・射撃場・司務庁が設置され、教授には居合術は英信流「英信流居合 第9代・林六太夫の墓」の谷村亀之丞、柔術は小栗流の平尾作内・日根野弁治「日根野道場跡」、剣術は無外流の都治亀五郎・新陰流の美濃部団四郎・小野派一刀流の麻田勘七「麻田勘七の道場跡か?」・大石神影流の寺田忠次「寺田小膳の邸宅跡」、砲術は高島流の徳弘董斎、蘭学は細川潤次郎「細川潤次郎の生誕地」などが務めている。
助教等には藩内で学問に秀出た者をその都度登用しており、箕浦猪之吉「箕浦猪之吉の生誕地:ハラキリを世界に知らしめた人」や、谷干城「【土佐の偉人�J】谷干城:熊本城籠城戦」、汗血千里駒の作者である坂崎紫瀾などが助教を務めている。
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ちなみに土佐東征軍の迅衝隊等はここ致道館から出発している。
致道館は藩校であると同時に、軍事拠点でもあったのだ。兵法教授や武術・西洋砲術の教練もしていたのだから当然か。



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上町2丁目に近藤長次郎の生誕地碑がある。
実際の生誕地はここからほんの少しだけ離れた所にあり、この碑も昔は家屋の敷地内にあった(はず…)。
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近藤長次郎は1838年3月7日に餅菓子商・大里屋伝次の長男として生まれた。学問好きの叔父・門田兼五郎の影響を受け学問に目覚め、兼五郎の知り合いである河田小龍「【三都物語2010:京都】河田小龍の墓」に師事。また小龍からの紹介で甲藤市三郎や、上町の近くにある神田村で私塾を開いていた岩崎弥太郎に学び、この間、剣術・槍術も学ぶ。
商人ながら学問に秀でた長次郎は小龍の手引きで由比猪内直春の下僕となるが、由比が江戸へ赴く事になると自身も遊学を決意し、幼い頃から顔見知りで近所に住んでいた刀工・左行秀「左行秀の寓居跡」「左行秀の邸宅跡の跡」に資金援助をしてもらって由比に随い上京。安積艮斎に儒学を、手塚玄海に洋学を、高島秋帆に砲術を学び、またこの間、勝海舟の塾に入門する。勝塾で学んだ長次郎は「非常に優秀」と評判になり、その評判を知った土佐藩は長次郎に名字帯刀を許し、2人扶持・金10両の待遇で召抱えた。
武士になった長次郎は、この後、坂本竜馬と共に海舟の大阪海軍塾「【三都物語2010:大阪】勝海舟の寓居(大阪海軍塾)跡」の設立や(このときに和菓子商・大和屋の娘・徳と結婚「【三都物語2010:大阪】近藤長次郎の結婚式場跡」)、神戸海軍操練所の設立、長崎の亀山社中の設立等、多くの方がご存じの活躍をしていく。


近藤長次郎と言えば↓の写真「近藤長次郎 - Wikipediaより拝借」でわかるように柄が異様に長い刀をさしている。大石神影流?か示現流?か忘れたけど、柄を長くしそれを手首に固定させる流派があったはず。もしかして長次郎はその流派を習っていたのだろうか。それとも復古刀を唱えた土佐出身の名刀工・南海太郎朝尊の影響を受けて、まるで太刀のような刀を拵えたから長い柄なんだろうか。



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県道279号線を春野から太平洋に向かって走っていると、岡崎精郎の生誕地碑がある。

岡崎精郎は1898年12月21日生まれの画家・政治家。
高知第一中学校を卒業後、画家を目指して上京し、岸田劉生主宰の草土社で本格的に絵を学ぶ。しかし1920年末に病に侵され帰郷。帰郷すると、療養中に知った武者小路実篤の提唱するユートピアに影響され、後に私財を投じて貧しい庶民を対象にした大衆診療所・天生園を開いたり、自身所有の田畑を小作人に解放(税金以外の土地使用料を取らない等)している。

この精郎さん、武者小路実篤が提唱したユートピアの実現を図ったと目される人だが、実篤と決定的に異なる点がある。それは、実篤の方はその思想が現実離れしていたり、実現のための行動が気紛れで無責任だったが、精郎さんは県内の小作争議を指導して全国農民組合高知県連を結成して委員長となったり、後に議員になると、高知市長となった氏原一郎らと共に新興倶楽部を結成して農民問題や被差別部落問題を取り上げて活動し、ユートピアの実現を現実的かつ精力的に図った点である。この活動ぶりから精郎さんは「農民の父」と慕われた。

だが精力的な活動がたたってか腎臓病を患い1937年12月の県議会で質問中に倒れ、翌年1月4日に逝去している。享年41歳。


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鏡川の側にある山内神社の境内に、山内容堂の銅像がある。

山内神社は、土佐藩初代藩主・山内一豊、その夫人である見性院、第2代藩主・忠義を祀るため、1806年に第10代藩主・豊策により高知城内(現在の県立図書館辺り)に造営された藤並神社に始まる。後に場所を現在の地に移して歴代藩主も祀るようになった。
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ちなみにこの神社、歴代藩主を祀っているにもかかわらず境内内には容堂の銅像しかない。普通なら初代藩主像が必ずあるはずだが、それがなく、容堂の銅像のみがあるのだ。
容堂の銅像しかない理由は、もしかしたらこの地が容堂の屋敷跡だからなのかもしれない。神社が建てられる前にあったその屋敷の正式名称は南邸山内屋敷「山内家の四屋敷跡」と言い、容堂が5歳の時の1832年に、容堂の父であり第10代藩主・山内豊策の四男・豊著が創設している。容堂は1846年に2代目当主となるが、その2年後の1848年に第13代藩主・豊熈、第14代藩主・豊惇の相次ぐ逝去のため第15代藩主に抜擢され、同家を弟の豊積に譲り、自身は藩主になっている。


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