2011年04月

ろーどはどーろを走るのに楽だにょ。

FホイールがMTB用でぶっといタイヤ履かしててもスリックは楽にょ。
つーかRホイールが昔サイズ対応だから使えるハブが少ないにょ。無理やりなら今サイズのホイールをセットできるけど、走ってたら知らんまにセンターずれるし、なによりフレームが痛むからやりたくないにょ。あと折角の26インチ用フレームなんじゃからブルホーンバーとかに変えてアスロンちっくにしたいニョロ。

そー言えば、うなぎ食いたいニョロ ∈(゜◎゜)∋
昔はこの近くの川でウチのおじはんが鰻とってたんやけど、今は獲れんらしいニョロ。天然の鰻はそんなに柔らかくなくプリプリしてるニョロ。もっかいあの味を味わいたいニョロ。
ニョロニョロ~~~∈(  ゜◎゜)∋
937f37c0.jpg






その昔、現・中央公園の辺りに、武市半平太を尋問した野中太内の邸宅があった。
a8918284.jpg

元々太内は永井家の三男として生まれたが、土佐藩の名宰相・野中兼山の支流である野中持継の養子に入り、上士ではあるが貧しかった同家を200石取りの御馬廻役にまで栄えさせた。太内が同家を栄えさせられたのは、吉田東洋率いる新おこぜ組の一人だったため、東洋に重用され、幡多郡奉行・高岡郡奉行・小目付・大目付を歴任出来た事があるだろう。
大目付の際には土佐勤王党の弾圧に関わり、党員を厳しく取り調べた。太内は気性が荒かったため取り調べは峻厳極まるものだったが、節を貫く気骨と情を合わせもった者でもあったため、尋問を受けた武市半平太は一目置いたと言われている。
戊辰戦争の際には胡蝶隊隊長に任命され会津への従軍を命じられたが、佐幕派の太内は同じ考えを持つ寺村左膳「寺村左膳の邸宅跡」等の同志33名(三十人組・連署組)と連署で建白書を藩主に奉じ従軍命令を拒否。これを説得しようと前藩主・山内容堂「山内容堂の像」が直々に面会したが、その際に太内は「強て征伐に御賛成ならば、君公としても其侭には相成らぬ」と豪語したため容堂は激怒。太内は切腹を命じられた。切腹を命じられた太内は1868年5月27日に、自身が尋問した半平太の切腹地である南会所で切腹。41年の生涯をとじた。



↓ぽちっとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 高知県情報へ
にほんブログ村







高知県の端、東洋町の甲浦地区に、土佐南学の学風を固めた谷時中「谷時中の墓(清川神社)」の生誕地碑がある。

30e68e16.jpg

時中は1598年に、甲浦に今もある真乗寺の僧・釈宗慶の子として生まれた。のち吾川郡瀬戸村にある真常寺に移り、同郡長浜村の雪蹊寺の僧・天質から儒学を学び、後に僧籍を離れて儒学者となる。儒学者になった時中は、これまで土佐に伝承されてきた朱子学を、単なる朱子学の解釈学ではなく、義理名分と実践を重んじた独特の学問として昇華し、南学(土佐南学、海南学派)「南学発祥の地」を確立。その思想は幕末まで引き継がれ、明治維新の原動力の源となった。

↓は現在の真乗寺。
この寺は、甲浦の道場山にあった草庵を、谷修理亮の扣地に谷一族出身の僧である宗慶が1594年に建立したことにはじまる。1604年の慶長大地震で一度流されたようで1611年に再建されるが、翌年に宗慶・時中親子が瀬戸村に移住したため荒廃した。1648年に再興され今に至っている。
a9d44d92.jpg

↓ぽちっとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 高知県情報へ
にほんブログ村




NTT高知支店?の周辺にはその昔、山内容堂・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳「寺村左膳の邸宅跡」と共に大政奉還建白書に連署し、また維新時には後藤・福岡と共に土佐を代表して新政府の参与に任じられた、土佐閥政治家の中心人物の一人である神山左多衛の邸宅があった。
a14bb8f6.jpg

左多衛は200石の御馬廻役である神山久右衛門の子として1829年に生まれた。新おこぜ組の一員であり、優秀な人物だったようで、参政・吉田東洋に郡奉行・大目付になるよう命じられ着任している。また温厚で廉直な性格だったとも言われているが、幕府から第二次長州征伐のために出兵指示が出た際にはこれを拒否するなど、なかなか肝の据わった人物でもあったようだ。色事も満更ではなく、在京時にはよく先斗町等で遊んでおり、その際に知り合った先斗町の小料理屋・伊勢竹の娘であり自前芸者である菊尾(後に万佐子)を夫人にしている。


↓ポチッとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 高知県情報へ
にほんブログ村




市役所や県庁のある本町の南側にはその昔、薩土盟約の締結や大政奉還の実現に関わった土佐藩重臣の一人である寺村左膳の邸宅があった。
be7c5e30.jpg

左膳は1834年7月30日に藩中老・寺村主殿の三男として生まれた。
山内容堂の側用人を長く務め、後に参政になると後藤象二郎の大政奉還論に共鳴し薩土盟約「【三都物語2010:京都】薩土盟約の締結の地」の締結に関与。盟約締結時には、当初から武力倒幕路線を歩んでいた薩摩に対し平和路線を説き、また盟約書の成文化を担当した。左膳が記述した盟約書は西郷隆盛→島津久光→島津茂久に渡り「薩摩藩として盟約書の内容について趣旨甚だ御同意の旨」の回答を得て、正式に薩土盟約の締結が成された(一般には三本木の料亭での会談日が締結日となっているが…)。また数日後には佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」とともに在京中の芸州藩重臣・辻将曹と会談し大政奉還建白についての協議をしている。
薩土盟約破綻後も平和路線(=大政奉還)を進め、1867年10月3日に容堂ほか後藤象二郎・福岡孝悌・神山左多衛「神山左多衛の邸宅跡」と共に連署で大政奉還建白書を作成し、これを幕府老中・板倉勝静に提出。これを受けて幕府は同年10月14日、徳川慶喜により朝廷に大政が奉還され、約250年続いた江戸幕府の歴史に終止符を打つことになった。


↓ポチッとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 高知県情報へ
にほんブログ村




↑このページのトップヘ