2011年05月

現・津野町役場に、明治・大正時代に経済危機に陥りかけた関西経済界を救った片岡直輝の生誕地碑がある。
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直輝は1856年8月3日、土佐勤王党の支援者として有名な片岡孫五郎の長男として生まれた。父が多大な借金を残したまま早世したため家は貧しく、そのため勉学に秀いでていた直輝は14歳の時に塾を開き、わずかの収入ながら家計を助けた。その甲斐あってか多少家計は楽になり、寺に預けていた弟・直温を1873年に引き取ると、直温に家を任せて自身は上京。海軍に入隊した。
海軍では主計畑を歩んだが1891年9月に退役すると、1892年7月に同郷の河野敏鎌「【土佐の偉人�L】河野敏鎌:国のために上司を斬首」の秘書官となり、その後、河野の内務大臣就任に伴って内務省・大阪書記官となる。さらにその後に大阪府書記官となると、知事・山田信道に新任されて、上水道敷設、大阪港建設、下水道整備などの指揮で才覚を発揮し、1896年6月、日本銀行に入行。翌年に大阪支店長に抜擢された。
1899年に大阪瓦斯(現・大阪ガス)社長に就任するも、第1次大戦の物価高騰に伴うガス料金引き上げが大阪市の反対に遭い遂行できず、そのために発生した業績悪化を理由に1917年7月に解任された。この間、堺瓦斯社長、南海鉄道社長、広島瓦斯社長、広島電気軌道取締役も兼任している。
大阪瓦斯社長の退任後は阪神電鉄社長に就任するも、1922年9月の貴族院議員勅撰により辞職し実業界から離れた。だが、北浜銀行の取り付け騒ぎ発生を察知するとこれに対処。取り付け騒ぎの原因をつくった大阪電気軌道(現・近鉄)・北浜銀行・大林組を支援・再建し、関西経済に混乱を起こすこと無く処置した。
1926年12月、膵臓炎を患い、翌年の1927年3月に十二指腸潰瘍を併発。同年4月13日に亡くなった。享年72歳。
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天神橋通の近くには昔、衆議院議長を4期連続務めたり、立志社の初代社長、西原清東の後に同志社総長になった片岡健吉の邸宅があった。氏については多くの方が知っていると思うので、今回は、氏の人生のなかで比較的着目されてない維新が終わる頃までを紹介します。
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片岡健吉は1843年12月26日生まれ。幼名・寅五郎、実名・益光。1857年に元服し名を健吉と革名した。
父は俊平、母は渋谷氏の娘・幸。祖父の範三郎は藩の重役を数々務めており、また儒学に秀でていた人物だった。
幼い頃の健吉は勉強嫌いだったが、この祖父に可愛がられ常に傍らに置かれ、日本外史や保建大紀などを教えられた。これをきっかけに勉学に目覚めたのか後に、柴田敬吉に習字を、福岡精馬に経学を学んだ。武技については好んで居合・馬術・兵学等を学び、沢田勘平・谷村亀之丞に馬術を、寺田忠次「寺田小膳の邸宅跡」に剣術を、下村茂一「英信流居合 第9代・林六太夫の墓」に英信流居合・高木流体術を、本山団蔵に竹内流柔術を、郷円之丞に槍術を、中山衛門七郎に北条流兵学を学んだ。
さまざまな文武を収めた健吉は、19歳のときに初めて勤めに出る。それは藩主・豊範の従者であった。その後、足軽大将等を経て、1864年に香我美郡奉行になり同地へ引っ越す。後に鉄砲組頭や南会所六明組郷士隊長になり、1867年7月19日に御侍別撰小隊司令になった。同年8月4日、英軍艦が須崎港に来航した際には、この警備のために致導館「藩校・致道館の跡」に7日まで詰める。そして7日の夕方になると種崎に配下を従え進軍し、台場の傍らに野陣を敷いて警備。10日に致導館に帰還した。後に仕置役、御馬廻役となった。
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維新の際には戊辰戦争に参戦。1867年1月8日に迅衛隊右半大隊指令を拝命し、13日に致導館を出発。途中、高松藩追討の勅命を受けたため迂回し19日に高松城を攻略。1月末に入京した。京都では在京だった家老・山内隼人から大軍監兼任を命じられ、2月中旬に京都を進発。そして3月6日、勝沼で、甲府にいる近藤勇配下の敵陣を撃破。薩長の兵士はこの戦果を妬んだそうだ。勝沼の戦いの後は瀬川・日光・大桑・今市で戦い、棚倉城を攻略。その後、本宮で戦い、二本松城を攻略。そして会津若松城の攻略に参加した。会津若松城攻略の際には、官軍の進軍を邪魔しようとする幕軍を牽制し、これに成功。後から続いてくる官軍の会津侵入を可能にした。また、城南にいた敵兵を駆逐し、城の攻略に先鞭をつけた。9月22日、会津松平家が軍門に降参。24日に城を受け取った。
これらの戦功から健吉は大監察兼軍務局参謀に任じられ、その後に参政軍事掛になった。そして翌年に再度、戦功が評価され中老に任じられた。維新後は藩政改革に伴う中老職廃止により2等士族上席兼軍務総裁となり、その後、高知藩少参事→藩応接役として東京に赴任→征韓論争に関与する事になる。

ちなみに西原清東の後に同志社総長になる経緯については→「【三都物語2010:京都】薩長同盟の締結地」を見てね。


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鏡川大橋のたもとの近く、九反田に、殖産興業・西洋科学教育・富国強兵を目的に開設された土佐藩の施設・開成館があった。
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開成館は1866年に吉田東洋の甥にあたる後藤象二郎によって設立された。
開成館には勧業局・軍艦局・貨幣局・医局などが設置され、薩摩・長州に遅れを取っていた軍事・経済面の強化および、それらの最新知識を西洋から吸収するための西洋科学教育がなされた。責任者である奉行には由比猪内「由比猪内直春の邸宅跡」・森権次「森権次の邸宅跡」らが任命され、実務者としては細川潤次郎「細川潤次郎の生誕地」・ジョン万次郎・岩崎弥太郎「安芸ポタ�@ (岩崎弥太郎 生家)」・佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」などが勤務し、藩の軍事面・経済面のレベルを引き上げた。特に経済面では、土佐で生産される和紙・樟脳・茶・砂糖・鰹節など20数種類の産物を、藩の専売品として長崎・大坂「【三都物語2010:大阪】三菱商会跡」から海外輸出したため短期間で10隻の汽船を保有するまでに成長。後に坂本龍馬・岩崎弥太郎等との関わりを経て、開成館→三菱商会へと発展した(※1)。

(※1)開成館と坂本龍馬・岩崎弥太郎の関わり。
開成館と坂本龍馬は深い繋がりを持つ。龍馬率いる亀山社中は藩付属の外郭機関「海援隊」となるが、龍馬亡き後に、後藤によって開成館の長崎および大阪出張所(=土佐商会)となったのだ。また、さらに後には岩崎弥太郎によって土佐商会→九十九商会→三菱商会→郵便汽船三菱会社→三菱財閥となっている。
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その昔、高知商工会議所の近くには、土佐藩重臣の一人である森権次の邸宅があった。
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森権次は250石の御馬廻役。冷静に物事を分析する静かな人だったようで、武市半平太を尋問した際には、尋問を受けた半平太から「静かに事を分け、折々言うなり」と評されている。
1863年8月以降は佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」・由比猪内「由比猪内直春の邸宅跡」・本山只一郎とともに大監察となり、翌年に起きた野根山二十三士「野根山二十三士の殉節地」の事件の際に麻田楠馬「麻田勘七の道場跡か?」・乾退助・後藤象二郎らと連署で「速やかに処刑せよ」という命令書を出している。また開成館「開成館の跡」の奉行や、戊辰戦争時には小南五郎右衛門「小南五郎右衛門の生誕地」とともに土佐東征軍・迅衝隊の大目付なども勤めている。
同じ通りには、少し離れた所に片岡健吉「片岡健吉の邸宅跡」や板垣退助の邸宅もあった。


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今日は、今は亡きクラインのQエリートでポタりましたよ。
しっかしこいつはコーナリングで体重かけた時のフレームのしなりが硬すぎず柔らかすぎず、体にまとわりつく感じで乗り心地いいね。あと色がメッサ綺麗(*´ェ`*)ポッ 後方斜めから見ると淡いブルーに、前方斜め&横から見ると深いブルーにと見る角度によって色が変わる。クラインと言えば昔、ヤナギの真っ赤なアドロイトに憧れたけど、真っ青なQエリートもいいもんっすなあ。
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