現・津野町役場に、明治・大正時代に経済危機に陥りかけた関西経済界を救った片岡直輝の生誕地碑がある。

直輝は1856年8月3日、土佐勤王党の支援者として有名な片岡孫五郎の長男として生まれた。父が多大な借金を残したまま早世したため家は貧しく、そのため勉学に秀いでていた直輝は14歳の時に塾を開き、わずかの収入ながら家計を助けた。その甲斐あってか多少家計は楽になり、寺に預けていた弟・直温を1873年に引き取ると、直温に家を任せて自身は上京。海軍に入隊した。
海軍では主計畑を歩んだが1891年9月に退役すると、1892年7月に同郷の河野敏鎌「【土佐の偉人�L】河野敏鎌:国のために上司を斬首」の秘書官となり、その後、河野の内務大臣就任に伴って内務省・大阪書記官となる。さらにその後に大阪府書記官となると、知事・山田信道に新任されて、上水道敷設、大阪港建設、下水道整備などの指揮で才覚を発揮し、1896年6月、日本銀行に入行。翌年に大阪支店長に抜擢された。
1899年に大阪瓦斯(現・大阪ガス)社長に就任するも、第1次大戦の物価高騰に伴うガス料金引き上げが大阪市の反対に遭い遂行できず、そのために発生した業績悪化を理由に1917年7月に解任された。この間、堺瓦斯社長、南海鉄道社長、広島瓦斯社長、広島電気軌道取締役も兼任している。
大阪瓦斯社長の退任後は阪神電鉄社長に就任するも、1922年9月の貴族院議員勅撰により辞職し実業界から離れた。だが、北浜銀行の取り付け騒ぎ発生を察知するとこれに対処。取り付け騒ぎの原因をつくった大阪電気軌道(現・近鉄)・北浜銀行・大林組を支援・再建し、関西経済に混乱を起こすこと無く処置した。
1926年12月、膵臓炎を患い、翌年の1927年3月に十二指腸潰瘍を併発。同年4月13日に亡くなった。享年72歳。

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直輝は1856年8月3日、土佐勤王党の支援者として有名な片岡孫五郎の長男として生まれた。父が多大な借金を残したまま早世したため家は貧しく、そのため勉学に秀いでていた直輝は14歳の時に塾を開き、わずかの収入ながら家計を助けた。その甲斐あってか多少家計は楽になり、寺に預けていた弟・直温を1873年に引き取ると、直温に家を任せて自身は上京。海軍に入隊した。
海軍では主計畑を歩んだが1891年9月に退役すると、1892年7月に同郷の河野敏鎌「【土佐の偉人�L】河野敏鎌:国のために上司を斬首」の秘書官となり、その後、河野の内務大臣就任に伴って内務省・大阪書記官となる。さらにその後に大阪府書記官となると、知事・山田信道に新任されて、上水道敷設、大阪港建設、下水道整備などの指揮で才覚を発揮し、1896年6月、日本銀行に入行。翌年に大阪支店長に抜擢された。
1899年に大阪瓦斯(現・大阪ガス)社長に就任するも、第1次大戦の物価高騰に伴うガス料金引き上げが大阪市の反対に遭い遂行できず、そのために発生した業績悪化を理由に1917年7月に解任された。この間、堺瓦斯社長、南海鉄道社長、広島瓦斯社長、広島電気軌道取締役も兼任している。
大阪瓦斯社長の退任後は阪神電鉄社長に就任するも、1922年9月の貴族院議員勅撰により辞職し実業界から離れた。だが、北浜銀行の取り付け騒ぎ発生を察知するとこれに対処。取り付け騒ぎの原因をつくった大阪電気軌道(現・近鉄)・北浜銀行・大林組を支援・再建し、関西経済に混乱を起こすこと無く処置した。
1926年12月、膵臓炎を患い、翌年の1927年3月に十二指腸潰瘍を併発。同年4月13日に亡くなった。享年72歳。

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