2011年06月

大阪府堺市に、堺事件の際に切腹した土佐藩十一烈士の切腹地であり、墓のある、妙国寺がある。
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堺事件は堺を警護していた土佐藩兵と不法に測量をしていたフランス海軍との間で起きた銃撃事件。日本はフランス政府から責任を取るよう言われ、仕方なく土佐藩兵20名を切腹させる事にした。
朝廷からその指示を受けた土佐藩は、事件に関与した藩兵を大阪の土佐藩邸に謹慎させ、国元から深尾鼎・小南五郎衛門「小南五郎右衛門の生誕地」を出張らせ処置させる事にした。小南は切腹させる藩兵を決めかねたため、土佐稲荷神社「【三都物語2010:大阪】土佐稲荷神社(堺事件ゆかりの地)」に赴きクジ引きで決め、その後、ここ妙国寺へ移り、切腹を見届けた。
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境内に供養塔があった。
この碑は切腹した11名を悼んだ土佐藩主・山内容堂が建て、後に住職が建て直し、明治末に谷干城等が墓域を整理して今に至っているそうだ。この碑の奥に切腹地がある。
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妙国寺の道を挟んだ反対側に宝珠院があり、ここに十一烈士が葬られている。
切腹した十一烈士とは、箕浦猪之吉「箕浦猪之吉の生誕地:ハラキリを世界に知らしめた人」、西?、大石良信、山本利雄、杉本義長、森本重政、稲田樌成、池上光則、勝賀瀬周迅、北代正勝、柳瀬義好の11名。どうやら今の宝珠院は幼稚園を兼ねているようで、門前から中の様子を見ると、遊具とかがある広場の奥に大きめの墓が数基並んで建っていた。この日は土曜日だったからか門が閉じられ中には入れなかったが、恐らくあれが烈士の墓だろう。仕方ないので後日、墓前で手を合わせられなかった代わりに「烈士殉難の碑」に行って来た。
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護国神社の境内に、明治元年に起きた大阪・堺事件の際に切腹した土佐藩十一烈士を祭る、烈士殉難碑がある。
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碑の裏には明治29年に建てられた谷干城「【土佐の偉人�J】谷干城:熊本城籠城戦」「谷干城の墓所」書の碑文がある。内容を要約して書くと「東北で幕軍と官軍がまだ戦っていた明治元年に、堺港にフランス海軍が訪れて地理測量等をしていた。当地を警護していた土佐藩兵は法にのっとり中止を求めたが、むこうは言うことを聞かなかったため、司令官らしき人物をとらえた所「無礼である」と暴れだした。その際、土佐藩の隊旗を奪って逃げだしたフランス兵がいたため、これを追いかけたところ銃撃戦になり、フランス兵を銃殺してしまった。フランス側はこれに怒り、朝廷に対して土佐藩兵の処刑を求め、朝廷は受け入れた。箕浦「箕浦猪之吉の生誕地:ハラキリを世界に知らしめた人」・西の両隊長をふくむ20名が切腹する事になり、そのうち11名が切腹したが、その様子は鬼神も泣くほど壮烈なものだった。その様子にフランス側は戦慄して直視できなくなり、逃げ出し、11名が切腹したところで中止となった。鳴呼、烈士達よ。国のために忠義を尽くし死んだのは沈痛なり。君たちの忠魂を慰め、天下にこの事実を広げんがためにここに碑文を残す。」



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津野町に義堂周信・絶海中津の銅像がある。
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絶海中津の像。
端正な顔立ちのイケメンじゃないっすか。
絶海中津は津野を支配していた豪族・津野氏の一族に生まれ、後に夢想疎石の弟子になり、仏教界の重鎮になった人。足利義満・足利義持といった室町幕府の将軍をはじめ、後小松天皇や称光天皇をはじめとする朝廷の人々、多くの有力な守護大名が帰依した人物で、その人脈を通じて、守護大名間の勢力争いを調整するなどし安寧を守った。また吸江庵「「海南の名刹」吸江寺」を再建した人としても知られている。
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義堂周信の像。
絶海中津と同郷、同年代で、共に夢想疎石に弟子入りし、絶海と共に五山文学の双壁と言われた人だ。絶海がどちらかと言うと政治家的な働きをしたのに対し、義堂は官僚的な働きをした。詳細は「【土佐の偉人�C】義堂周信:室町幕府の発展を陰で支えた人」を見てね。
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先日紹介した片岡直輝の生誕地「片岡直輝の生誕地」は、彼の弟・片岡直温の生誕地でもある。
直温は、日本生命の創業に関わった人物であり、また金融恐慌を引き起こすきっかけをつくった人物でもある。
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直温は1859年9月18日生まれ。家計が厳しかったため、幼いときに東林寺に預けられ、老僧のもとで漢学を学んで質素倹約の生活をし、行商をしてわずかの収入を蓄えた。そして、蓄えたその金で高知市に出て、致道館「藩校・致道館の跡」に入り英学を学ぶ。だが、学費が払えなくなって帰郷し、しばらくは村内の子供に習字を教えて暮らしていたが、向学の念が強く、陶冶学校に入学。卒業すると村夫子になり、後に学校の監事や高岡郡書記を務め、22歳の時に近隣13ヶ村で構成される村会の議長となった。議長になった直温は、地方経済の疲弊を中央に訴えるため上京し、参議・伊藤博文に謁して4時間にわたって訴えた。その熱意に打たれた伊藤は、直温を内務省御用係にスカウト。後に工部省御用係、佐賀県警、滋賀県警で勤めることになった。
1889年に官僚を辞し、日本生命の創立に参加。副社長に就任した。開業直後、役員も保険に加入することになったが、診査の結果、保険料の割増し条件がつけられ不平を言う者がでた。すると直温は「重役から保険の根本主義を壊しては堅実に経営することは出来ない」と力説し、皆を納得させた。また当時、生命保険は世の中にほとんど理解されておらず、直温は職員とともに全国行脚し勧誘した。1903年より2代目社長に就任すると、その6年後に保有契約高で業界1位になり、現在の日本生命の基礎を確立した。1919年に社長退任。この間に都ホテルや関西鉄道の社長、日本共同銀行の頭取、様々な商社や紡績会社の役員も務めた。
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政界にも地歩を築き、1893年に衆議院議員に選出。以降当選8回を数える。この間に桂太郎の新党構想に関与して所属の立憲国民党の分裂を引き起こし桂新党に参加。後に後身の憲政会・総務を務める。第2次加藤高明内閣で商工大臣として初入閣(ちなみに大蔵大臣は浜口雄幸「浜口雄幸の生家までポタ�A」)し、第1次若槻内閣では商工大臣と大蔵大臣を務めた(ちなみに内務大臣は浜口雄幸)。
若槻内閣は加藤内閣で浜口が掲げた「早期の金解禁実現」のために1923年に起こった関東大震災の震災手形の処理に取り掛かった。だが処理不能な手形が膨大となり金融機関の信用が揺らいできた。このため1927年3月14日、震災手形処理をめぐる衆議院予算委員会が開かれ、その席で大蔵大臣だった直温は「不良銀行の名前を明示せよ」と追及され「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と実際には破綻していなかったにも関わらず失言する。たしかに渡辺銀行は、放漫経営により破綻直前だったが、実際には辛くも資金繰りに成功しており破綻には至っていなかったのだ。だが渡辺銀行は、この直温の発言を口実に休業を実施、これが取り付け騒ぎを起こし、昭和金融恐慌の引き金となった。この影響で、4月に金子直吉「【土佐の偉人23】金子直吉:財界のナポレオン」率いる鈴木商店が倒産。多額の債権が回収不能となった台湾銀行が休業に追い込まれた。これらの責任をとって4月20日に若槻内閣は総辞職。直温も大蔵大臣・商工大臣を辞任した。その後1930年に貴族院議員に勅選されるが、その4年後の1934年5月21日に死去。享年76歳。


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