2011年07月

に、行ってきまんた。

徳島県の高速道路日和佐線の開通記念か何かのイベントらしいっす。
120キロ(約300人参加)、60キロ(約150人参加)、10キロ(約50人参加)の3コースあったんスが、ワシは60キロコースにエントリーしまんた。ここ ↓ はスタート地点の日和佐道入り口。120キロコースの人から約20人ずつ順次スタートだったので、60キロや10キロ参加者は炎天下の中ずーっと車道で待機っすよ。暑いっちゅーねん。。。まだ走ってないのにボトルの水が3/4になってしもうたがな。。。なんで全員集めてスタートさせるのよ。コースごとに呼んでスタートさせたらいいやん。
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わーいわーい\(^▽^)/
高速道路を自転車で走ってるよ!
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わーいわーい\(^▽^)/
トンネルだお!
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途中から下道におりて走りまんた。色んなところで沿道から声援頂きました。ありがとうございます。
RTSで行こうかと迷って一応車に積んで来てたんスけど、KLEINちゃんにして正解でした。平地はともかく登りがね、もうね、やっぱ本物ローディーにはついて行くだけで精一杯っすわ。あとトレイン組んで走るとやっぱ楽っすね。引っ張ってくれた人達ありがとう。んで後ろで勝手にトレイン組まれるとビビるね。ある程度の速さで引っ張らなあかんというプレッシャーと、潰されるんちゃうかという恐怖で一層疲れる。トレイン組まれたら瞑想状態に入らなあかんね。空にならな潰れる。あ、悟りが開けた。
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集合地点の近くにて。
KLEINちゃん、おつかれちゃん。
Qエリートの名に恥じぬ軽さで、エリートに程遠いワシを助けてくれました。
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幕末、土佐藩の士格社会には「盛組」という結社があり5派あった。

その内郭中にある3派を下辺、上辺、北辺、江の口村にあるのを江の口辺、小高坂村にあるのを小高坂辺と言い、各辺とも文武の業に励んで勢力拡大を図ったそうだ。このため辺同士に軋轢を招き喧嘩が起こるようになるなど問題もあったそうで、山田典膳等とともに下辺に入った片岡健吉も、他の辺の連中に喧嘩を売られると仕方なく買ったり、負けると次回は必ず勝つようにするなどしたと言うから、盛組はただの仲良しクラブの類ではなかったようだ。

今回タイトルに出した板垣退助だが、実は片岡の属していた下辺の頭領格にいたのが、片岡家から2軒隣にある乾家の長男である退助、つまり後の板垣退助であった。幼少期の板垣は素行が悪く、家督相続するまでに藩から2度も処罰を受けていると言うから、けっこうな粗暴者だったことが窺える。だがその性質が故に、後に転じて、独断で薩土盟約を結んだり、独断で戊辰戦争への参戦を主導して土佐藩を維新の勝ち組にするなど、ただの常識人では出来なかったであろう大仕事を成し遂げる事が出来たのだろう。問題児やクセのある人間が大仕事を成し遂げるというのは古今よくある話である。

とは言え、板垣の華々しい活躍の陰に、板垣に潰された優秀な人物もいたりする。例えば上司格になるであろう寺村左膳「」は、倒幕時に藩論にそって左幕路線を推し進めようとしたが、藩論に沿うのを好としない板垣の逆鱗に触れ現・東洋町に流罪・謹慎させられるなど、惨い話も聞かれる。

このように一人の偉人に的を絞って歴史を見ると、華々しく華麗で、正義や真実に基づいた歴史に見えても、よくよく調べてみると何が正義で何が真実か分からない事だらけであることに気付く。歴史上の多くの対立を見てみると、両者共に両者の信じる正義があり、自分の正義を信じてそれを推し進めようとすると、反対勢力から次第に故意ではないだろうが真実が歪曲され、それをきっかけに不信感が発生し対立が生じ、溝がドンドン広がっていくという魔のスパイラルをよく見かける。それが歴史のダイナミズムの源泉であるとも言えるが、その過程を見ると人間ってやつはどうしょうもないモノだなと思ってしまう。もう人間なんか滅びちゃえばいいのにって。
おっと、おそらくこの後の文章は「けど人間は素晴らしいから、きっと対立や問題を解決して発展していくよ」と続けるべきなんだろうけど、そんな気休めは書かないじぇ。もうね現代社会に生きる人間は腐ってるんだよ。ワシを含めて。もうね、自我、欲望、感情を捨てよう。色即是空空即是色。うん。
以上、板垣退助ビール飲んでたらそんなこと思ったって話でした。ちなみに小高坂辺の頭領格は谷千城、江の口辺の頭領格は小笠原唯八だったらしい。
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本山町の上の坊という所に、野中兼山が谷時中と山崎闇斎を招いて南学を講究した学堂跡がある。

いつ頃、この学堂が開かれたのかは分からないが、弟弟子である闇斎を招いたという事は、少なくとも兼山が時中「谷時中の生誕地」「谷時中の墓(清川神社)」に弟子入りしてかなり経った後に、この地に招いた可能性が高い。
ちなみに、この地で兼山が講究した南学「南学発祥の地」とは、義理実践を重んじる朱子学の一派で、実践を重んじる点で中国の朱子学とは一線を画しており、その学問を確立したのが兼山の師匠である時中である。兼山はこの南学の実践主義に基づいて、郷士の登用や、土地改良経営などを行い成果を上げ、他藩から「政治の土佐」と一目おかれる様になるほど藩を発展させた。
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しかし、兼山が失脚すると南学は衰退。時中の息子である谷一斉や大高坂芝山による再興運動もあったが、本格復興とまではいかなかった。この後に本格的に復興させたのは谷秦山「谷秦山の邸宅跡と墓」と山内規重であったが、第6代藩主・山内豊隆の愚のために再度衰退の危機に面した。だが規重が第7代藩主の後見人となって復権すると南学を奨励。第8代藩主の治世には秦山の子である谷垣守、第9代藩主の治世にはその子である真潮「谷垣守・真潮の邸宅跡」等が登用され再度の再度、南学は復興した。この後の流れは「南学発祥の地」を見てね。
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も一つちなみに、この地にある兼山の母親の墓誌名と帰全山の号を闇斎が書いている。



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