2011年08月

大阪の松屋町近くに、大利鼎吉の遭難地碑がある。

大利鼎吉は1842年生まれの土佐藩士。
土佐勤王党に43番目に加入しており、吉田東洋暗殺事件の際には偵察役を担っている。1863年に脱藩し、蛤御門の変に参加後、長州・京都・大阪にて活動していた。この間、坂本竜馬とも共に行動しており、お龍の回想録にも龍馬の友人として記述されている事から、龍馬と親しい間柄だったことがうかがえる。
4733bcdc.jpg

この碑は「ぜんざい屋事件」にて横死した大利を称えるため、同事件に関与していた田中光顕が建てた。
ぜんざい屋事件とは、幕府が長州征伐のために軍を集結させていた大阪城を奪取しようとした志士達と、その計画を察知した新撰組との間で起こった斬り合いのことで、名前の由来は、斬り合いの起こった場所が、志士達の潜伏場所である「ぜんざい屋」だったことに由来している。
このぜんざい屋、正式な屋号を「石蔵屋」と言い、武者小路家の雑掌を自称する本田大内蔵が営んでいた。そして、このぜんざい屋では、田中光顕、片岡利和「【土佐の偉人�Q】片岡利和:新撰組と斬り合った!」、大橋慎三、池田応輔等の志士が出入りしており、ここを拠点に大阪城奪取計画の準備を進めていたのだ。だが、その情報が新選組に漏洩する。
1865年1月8日、情報を入手した新選組の大坂屯所長・谷万太郎は、配下の谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎の3人を率いて石蔵屋を襲撃した。しかし大利と本田以外の者は外出中であり、店番をしていた本田もすぐに逃げたため、新選組は2階にいた大利たった一人を4人がかりで襲撃した。武術に長じていた大利は1時間にもわたり応戦したが、さすがに4人相手では歯が立たず、力尽きて横死。享年24歳。

碑の裏には、大利が前日に詠んだと言う「ちりよりも かろき身なれど大君に こころばかりは けふ報ゆなり」という歌が刻まれている。



↓ぽちっとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 高知県情報へ
にほんブログ村










今日のルートは、市内中心部→長浜に出て→花街道をトロトロ走り→浦戸大橋をヨタヨタ上り→千松公園で一服→14号線をギューン!→55号線に出て→ヤシィパーク→55号線→14号線→35号線でした。

いやあ、行きも帰りも向かい風だったのね・・・。

けど曇ってたから、暑くなかったのは良かった。
4b1866e8.jpg


126b8d33.jpg




今日8月15日「終戦の日」とは、今から66年前の1945年8月15日に、昭和天皇が玉音放送によって、日本がポツダム宣言の受諾を明らかにした日をいう。このように書くと、まるで8月15日のその日だけで戦争終結に至ったと思われるかもしれないが、実は日本が終戦に至るまでには様々な出来事が繰り広げられており、しかもそれらに高知に関わる人物が関与していた事はあまり知られていない。今日はその事について述べたいと思う。

まずは吉田茂「吉田茂-wikipedia」である。彼は太平洋戦争開戦前からその回避をはかり、開戦後も近衛文麿らと共に終戦工作を進めていたのだが、特に注目したいのは敗色濃厚となった1945年に「近衛上奏文」を近衛と協議して作成、天皇に上奏・説明させたことである。その内容は「陸軍統制派の独裁と戦争が続くならば日本の国体は維持できずソ連に共産化される。これを避けるため、一刻も早く統制派の一掃と戦争の終結をすべきで、その指導者として海軍の小林躋造や、反統制派の小畑敏四郎、山下奉文「山下奉文・高知出身-wikipedia」等の将官を推薦する」というものであった。1945年2月13日、吉田はこの上奏文の草稿を見て、翌14日に近衛が天皇に拝謁し上奏したのだが、天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と却下。型の上では絶対の存在である天皇ですら、統制派の排除に際して彼等がとるであろう強硬な態度を考えると、決断し辛らかったのだろう。また山下は、統制派の東条英機に疎まれてフィリピン防衛軍司令官に転出されたため国内におらず現実的ではなかった事もある(ちなみに、フィリピン防衛を困難にした原因として台湾沖航空戦の失策があるが、これに関与し山下と同じく苦難に立たされたのが杉本丑衛「【土佐の偉人�N】杉本丑衛:悲運の航空司令官」であった)。

なんとかして統制派の暴走を抑えなければならない。ここで登場するのが陸軍中将・小畑敏四朗「【土佐の偉人24】小畑敏四郎:終戦工作を担った一人」である。小畑は統制派・皇道派誕生の原点であるバーデンバーデンの密約を交わした一人であり、反統制派であった。人物高潔で尊王の志高く人望があり、多くの人に慕われ、青年将校や四元義隆といった右翼ですら慕ったと言う。また「作戦の鬼」と称されるほど有能な人物で、開戦前から「日本の陸軍は2流なのだから、支那とは平和路線を確立し、対ソ防衛に徹するべし。日独伊三国同盟などもってのほか。米と戦えば負ける」と言っていた。
反統制派で人物高潔、そして何よりも尊王の志高い小畑を近衛は信任し、小畑を自身の甥である細川護貞にひき会わせ、そして細川は小畑を昭和天皇の弟である高松宮などがいた終戦工作陣営に招き入れた。ここで小畑は殖田俊吉・近衛・吉田と共に、東条を政治から引き離して軍を粛清し、和平工作に移ることを計画。この計画書の原案を殖田が書き、小畑が補足した文書を作成、この文書が先記の近衛上奏文の原型となった。しかし、近衛上奏文の存在が憲兵に漏れてしまい、小畑は憲兵の取り調べを受け2週間の自宅軟禁を受けた(だが、小畑を尊敬していた陸軍大臣・ 阿南惟幾の計らいにより、検挙される事はなかった)。
また、この頃の内閣は鈴木貫太郎が組閣しており、終戦へ向けての工作を近衛達とともに進めたのだが、鈴木を精神的に支えた一人として山本玄峰「山本玄峰-wikipedia」がいた。山本は、鈴木が首相に就任する10日ほど前に、四元の案内で鈴木と会っており、その時に「この戦は負け戦じゃ。負けると分かった戦をいつまでも続けるのはバカのやる事。昔から負けて勝つという諺さえある。この上は負けっぷりを潔くすることじゃ」と鈴木に伝えた。この10日余りのち鈴木は首相になり終戦内閣を組閣。鈴木内閣は5カ月と言う短命に終わったが、この内閣が日本人を一億総玉砕から救い、戦争に終止符をうった。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾した。鈴木内閣は解散し、東久邇宮が組閣した。しかし東久邇宮は政治の素人なので、実質的に国のかじ取りを切ったのは、今でいう内閣官房長官となった緒方竹虎、近衛、そして小畑の3人だった。ちなみに最後の陸軍大臣になったのは陸軍大将・下村定「下村定・高知出身-wikipedia」で、下村は数百万にもおよぶ将兵の復員を約3ヶ月で完了させマッカーサーを驚かせた。
この間、一時は陸軍大臣候補にもなった事のある小畑は何をしていたのかと言うと、各地で予想される青年将校による徹底抗戦を抑えようとしていた。だが全てを防ぐ事は出来ず、本土決戦内閣を樹立しようとする青年将校が「玉音放送」を妨害しようとした宮城事件が発生。宮城(皇居の事)を占拠し、玉音放送の原版レコードを奪取するため探していた。この時の宮城防衛部隊である近衛師団の長は陸軍中将・森赳「【土佐の偉人�H】森赳:クーデター拒否!」で、彼は応援の到来を待つために、徹底抗戦を主張する青年将校を説得し、かつ事が運ぶのを時間稼ぎして遅らせようとするが、業を煮やした青年将校たちによって殺害された。青年将校はその後、応援に駆け付けた部隊によって鎮圧されたが、森の時間稼ぎが無かったら部隊到着時には青年将校達はレコードを奪って逃げ去った後かもしれず、そうなっていたら玉音放送も出来なかったので終戦に至らなかったかもしれない。

ところで、日本では8月15日を「終戦の日」としているが、多くの国では、昭和天皇が「誓約履行の詔書」を発し、日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎が米戦艦ミズーリ上にて降伏文書に調印した日が1945年9月2日であることから、この日を終戦の日としている例が多い。そして、こちらの終戦の日にも高知に関わりのある人物が関与している。
1945年9月2日、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリにて降伏文書の調印式が行われた。日本側の出席者は、政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎、そして数人の随員だったが、そのなかに海軍少将・横山一郎「横山一郎-wikipedia」も、出席を拒否した軍令部総長・豊田副武の代役として出席していた。ちなみに梅津も出席を拒否していたが、これを小畑が「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と叱り飛ばして出席させている。

降伏文書調印式が行われたミズーリの甲板には、2枚の星条旗が飾られていた。その内の1枚は1853年の黒船来航時にペリー艦隊が掲げていた物であり、これはアメリカにとって単に太平洋戦争に勝利しただけでなく、90年越しの植民地化成功を意味していた。もし坂本竜馬をはじめとする勤王の志士達がこの様子を見たら、どう思っただろうか。。。
そして現在、日本は形の上では独立し、先進国の一国として発展したが、それは中身を伴わない空虚な発展であった。日本人は失ってはならない日本人の精神・美徳を失い、替わりに異様な左翼主義と自己中心主義を受け入れた。その結果、その場しのぎの政治家や利己主義に走る経済主体が跋扈するようになり、日本という国、そして日本人の美徳や精神の命は風前の灯火となっている。
先の戦争は多くの尊い命を失ったが、終戦は、命を捨てて散った英霊たちが守ろうとした日本人の魂や美徳を失ってしまったのかもしれない。終戦の日は、戦没者の英霊を祀るだけでなく「英霊が命を捨てて守った日本という国と日本人の美徳を守ろう!」と再認識しなければならない日でもあるだろう。



↓ぽちっとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 高知県情報へ
にほんブログ村









今回の土佐の偉人は、小畑 敏四郎(おばた としろう)さん。

太平洋戦争中に統制派の東条英機に監視されるなかで、秘密裏に終戦工作を担った一人です。また、作戦の鬼と言われたほど優秀な陸軍軍人で、ソ連研究の第一人者であり、陸軍軍人にしては珍しく支那との平和路線を主張した人でもあります。



小畑敏四郎は1885年2月19日、小畑孫次郎の四男として現・東京都千代田区に生まれた。
父の孫次郎(美稲)は元・土佐勤王党員で、父の弟である孫三郎も勤王党員であった(ちなみに二人とも勤王党弾圧の際に河野敏鎌「【土佐の偉人�L】河野敏鎌:国のために上司を斬首」達とともに牢に入れられている)。小畑の生まれは東京だが、周囲の人間は、家系が土佐出であることに加え、一見温和だが内面は強烈でいかにも土佐人の血を享けた性格である事から「いかにも土佐の人間」だと認識していたようだ。
小畑は学習院初等科に進んだのち、父の京都引越にともない京都府立第一中学校に入学。その後、大阪陸軍地方幼年学校を経て、陸軍中央幼年学校に入学。ここで永田鉄山と出会う。同校卒業後、近衛歩兵第1連隊に配属され、1904年に陸軍士官学校を卒業。再度、近衛歩兵第1連隊に配属される。その後、陸軍大学校に入学。参謀本部勤務。1915年の第1次大戦ではソ連のモスクワやキエフなどに観戦武官として派遣され、その時ソ連研究の第一人者であった荒木貞夫に師事して、彼に負けず劣らずのソ連研究の第一人者、そして作戦家となった。

�@作戦の鬼
1932年上海事変が起こった。事変の起こった上海は米英等の利権が重なる地であるため、事変が長期になれば米英等が軍を送り込み、ひいては極東植民地化の推進に繋がる。これを避けるため日本は一刻も早い事変終結をむかえる必要があり、陸軍大臣・荒木貞夫、参謀次長・真崎甚三郎はその作戦立案を小畑に任せる事にした。当時、小畑は大佐で陸軍大学校の教官を務めていたが、作戦立案を行う作戦課長の職は中佐クラスが務めるもので小畑にとっては降格になる。だが小畑はこれを快諾、作戦立案をし、僅か1ヶ月で停戦に持ち込んだ。
その約1ヶ月後、5.15事件が起こった。これは海軍青年将校が中心に起こした事件だったが、一部陸軍士官学校生徒も入っていた。だが陸軍側の参加者は予定ではもっと多くなるはずだったが、これを察知した小畑の要請で西田税が説得に走ったため数名に留まったのだ。しかし数名でも陸軍の参加者がいたため「残念なことをしてくれたなあ」と落胆したが、軍による政治改革を目指す永田と東条英機は嬉々とした様子だったそうだ。

�A陸軍の分裂と暴走
・バーデンバーデンの密約
1920年代、小畑は海外勤務していた。この間の1921年10月頃、陸士同期である永田鉄山、岡村寧次と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンのステファニーホテルにおいて、陸軍の薩長閥人事除去を目指す「バーデン・バーデンの密約」を結び、昭和改元直後「一夕会」を組織した。一夕会の基本理念は、反宇垣ということと「荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎」の3大将を盛り立てていく事だった。ところが1931年に起きた満州事変後の方針会議をきっかけに、小畑と永田の意見が分かれ、後の派閥対立へと繋がる。
・統制派と皇道派
小畑は「陸軍の実力は、兵器、装備の点で2流で、ソ連侵攻は不可能であり、防衛に徹する必要がある」よって「日本と支那は提携して平和を確立し、対ソ防衛に注力すべきだ」と主張するが、一方の永田は「支那を力で屈服させ対ソ防衛の橋頭保とすべし」と主張した。会議では小畑に賛成のものが多く、その方針で行く事になった。だが、この話が重臣・西園寺公望に伝えれれた時、その内容は「小畑が対ソ戦争を主張し、永田が対ソ防衛を主張した」となっていた。いったい何故、内容が変わったのだろうか。そもそもこの話を西園寺に伝えたのは、永田の友人(原田某)で、永田が話を歪曲して伝え、あたかも自分の案が採用されたかのように伝えたのだ。さらに、天皇・重臣達が不安視していた対ソ戦(対ソ戦となれば対米英戦争のきっかけになるので天皇・重臣達は恐れていた)を、小畑が主導しているというウソまでついて永田は自身のライバルである小畑を貶めたのだ。永田の政治力により、小畑は好戦派の人間という評判を立てられ、天皇・重臣に嫌悪されてしまった。これをきっかけに一夕会は2つの派閥に分裂。すなわち永田率いる統制派と、これに対する皇道派である。
・皇道派と青年将校
小畑は、勤王党員だった父親の影響を受けてか尊王思想を持っており「我が国の軍隊は天皇の統帥下にある。日本の軍隊は天皇の命令以外、私意によって動かすべきではない。私利私欲に基づく侵略に兵を用いることは絶対にしてはならぬ。軍隊は国家国民の安寧のためにある」というのが信念であった。また地位・名誉・金・欲望は皆無で、ひたすら皇国護持のために将兵指導に全身全霊を捧げ、後輩・将兵には目を配り、公私共によく面倒を見たため慕う者(特に青年将校)が極めて多かった。そのため青年将校にとって小畑は、保身ばかり考える他の上級将校と違い、尊敬できる存在であった。小畑も尊王に燃える青年将校を愛していた。だからこそ小畑は青年将校に対して暴発する事のないよう言い聞かせていた。だが、永田鉄山・辻正信の謀略をきっかけに陸軍に嫌気がさした一部青年将校が永田惨殺事件や2・26事件を起こし粛清されると、これらを見た小畑は「これからは永田の子分の天下になるだろう」と1936年に陸軍を依願退役。統制派の暴走が一層加速した。

�B終戦工作
退役した小畑は、趣味の農作業に精を出していた。その頃、近衛文麿が小畑を自宅に招くようになった。その頻度は週1・2回、首相就任後は月に2・3回で、小畑の意見を聞いていたらしい。小畑は「軍人は軍人勅論を恪遵し、政治に係わってはならない」という信条を持っていたが、陸軍の暴走を抑えるために政治に関わるようになった。「支那への拡大路線は辞めるように」そう近衛に忠告するが、軍の実権は統制派が握っていたため近衛は何も出来なかった。そのため近衛は、小畑を近衛内閣の陸軍大臣に据えて直接陸軍を抑えさせようと考えたが、周囲との軋轢を懸念して断念した。またこの頃、小畑は憲兵に見張られたり盗聴されるようになった。近衛との接触を不審がる統制派の手によってだろう。日独伊三国同盟締結の際に、当時文部大臣になっていた荒木に「閣議でもって賛成勢力をぶち壊してくれ」と頼んだ事も原因の一つかもしれない。
そして開戦後は、近衛の命を受けた細川護貞と出会い、天皇に真実の情報を伝えるため高松宮への意見や情報提供を行った。また殖田俊吉が近衛・吉田茂・小畑を含めた内閣をつくろうと動いた際には、陸軍大臣候補に小畑は挙がり、東条を政治から引き離して軍を粛清し、和平工作に移ることを計画した。この計画書の原案を殖田が書き、小畑が補足した文書を作成したのだが、この文書を殖田上奏文と言い、後の近衛上奏文の原型となった。軍人の政治介入を嫌う小畑だったが、他に今の陸軍を抑えられる陸軍将官が少なかったため仕方が無く参加した。しかし、近衛上奏文の存在が憲兵に漏れてしまい、小畑は憲兵の取り調べを受け、2週間の自宅軟禁を受ける事になる。幸い検挙される事はなかったが(これは小畑を尊敬していた陸軍大臣・ 阿南惟幾が拘留を承認しなかった事による)、2週間といえども小畑は憲兵の監視下に置かれたため、近所の農家からは「非国民だ、スパイだ」という噂が流れてしまい、野菜や卵が買えなくなってしまった。

�C戦後処理
終戦を迎えた。荒木貞夫は「小畑が軍の中枢におり頑張っていたら、支那事変も起こらず、従って今日の敗戦の屈辱もなめずに済んだであろう」と涙を流しながら述懐したそうだ。
そんな小畑は近衛の推薦で東久邇宮内閣での国務大臣に推挙された(ちなみに小畑を推挙する際、天皇が「小畑は対ソ戦論者だが、そんな者に任せて大丈夫か」と問うたそうだ。永田・原田のつくったウソを天皇は戦後まで信じていたのだ)。小畑は「陸軍次官に選ばれたのだろう」と思い軍服を着たが、迎えに来た者が国務大臣だというので背広に着替え直した。するとそこに、小畑が国務大臣になったというラジオニュースを聞いた、小畑を「非国民」と噂していた近所の者達が、大八車いっぱいに乗せた野菜を持って小畑家に訪れ、お祝いを述べた。これを聞いた小畑は「御国が負けたのに何が目出たいか!今は浮かれている場合ではない。そんなに余っている野菜があるなら村民に分けてやれ」といって受け取らなかったそうだ。
東久邇宮は政治の素人なので、実質的に国のかじ取りを切ったのは、今でいう内閣官房長官となった緒方竹虎、近衛、小畑の3人だった。特に小畑は徹底抗戦を叫ぶ青年将校の説得に、大岸頼好を派遣してこれにあたらせた。また1945年9月2日の太平洋戦争降伏文書調印式の日には、陸軍参謀総長の梅津美治郎が出席を渋って居るのを見て「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と叱り飛ばし、梅津に降伏調印式出席を納得させるなど、軍の後処理に尽力した。だが1947年1月10日、結核により死去。享年63歳。

有能ではあったが無欲で頑固だったがために、私利私欲を欲するエリート軍人にうとまれ、貶められた典型的な人だ。これに屈せず闘い終戦を導いた点で、もっと高く評価されていい人物だと思う。






大阪の齢延寺に、武市瑞山を介錯した島村洲平の墓がある。
85f4e7e3.jpg

島村洲平は島村源次郎の長男として1832年に生まれた。寿太郎・雅菫・祐四郎とも言う。長姉に武市瑞山の妻となった富子がおり、また父・源次郎の弟である寿之助は武市瑞山と共同で道場を開き土佐勤王党員となった人物で、その姉である常の子供も同じく土佐勤王党員となった島村外内と島村衛吉である。
このように親戚が土佐勤王党関係者だらけであった洲平は、叔父である寿之助に誘われ土佐勤王党に入り山内容堂の警護役を務めた。だが警護役という仕事柄、身近で容堂の考えが勤王党弾圧に傾いてくるのを察知してか活動を自粛。このため容堂が勤王党弾圧に本格的に乗り出すと、瑞山や衛吉が投獄され寿之助が親類預けとなったにも拘らず、洲平はお咎め無しだった。
だが瑞山切腹の際に介錯を命じられ、公私共に仲の良かった瑞山を介錯。どのような気持であっただろうか…。維新後は官職につかず1873年12月2日、江戸へ上る途中に大阪で亡くなり、土佐藩関係者が多く眠るこの寺に葬られた。享年42歳。墓は墓地の一番奥にある無縁仏所の角の一番上にある。



↓ぽちっとお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 高知県情報へ
にほんブログ村








↑このページのトップヘ