大阪の松屋町近くに、大利鼎吉の遭難地碑がある。
大利鼎吉は1842年生まれの土佐藩士。
土佐勤王党に43番目に加入しており、吉田東洋暗殺事件の際には偵察役を担っている。1863年に脱藩し、蛤御門の変に参加後、長州・京都・大阪にて活動していた。この間、坂本竜馬とも共に行動しており、お龍の回想録にも龍馬の友人として記述されている事から、龍馬と親しい間柄だったことがうかがえる。

この碑は「ぜんざい屋事件」にて横死した大利を称えるため、同事件に関与していた田中光顕が建てた。
ぜんざい屋事件とは、幕府が長州征伐のために軍を集結させていた大阪城を奪取しようとした志士達と、その計画を察知した新撰組との間で起こった斬り合いのことで、名前の由来は、斬り合いの起こった場所が、志士達の潜伏場所である「ぜんざい屋」だったことに由来している。
このぜんざい屋、正式な屋号を「石蔵屋」と言い、武者小路家の雑掌を自称する本田大内蔵が営んでいた。そして、このぜんざい屋では、田中光顕、片岡利和「【土佐の偉人�Q】片岡利和:新撰組と斬り合った!」、大橋慎三、池田応輔等の志士が出入りしており、ここを拠点に大阪城奪取計画の準備を進めていたのだ。だが、その情報が新選組に漏洩する。
1865年1月8日、情報を入手した新選組の大坂屯所長・谷万太郎は、配下の谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎の3人を率いて石蔵屋を襲撃した。しかし大利と本田以外の者は外出中であり、店番をしていた本田もすぐに逃げたため、新選組は2階にいた大利たった一人を4人がかりで襲撃した。武術に長じていた大利は1時間にもわたり応戦したが、さすがに4人相手では歯が立たず、力尽きて横死。享年24歳。

碑の裏には、大利が前日に詠んだと言う「ちりよりも かろき身なれど大君に こころばかりは けふ報ゆなり」という歌が刻まれている。
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大利鼎吉は1842年生まれの土佐藩士。
土佐勤王党に43番目に加入しており、吉田東洋暗殺事件の際には偵察役を担っている。1863年に脱藩し、蛤御門の変に参加後、長州・京都・大阪にて活動していた。この間、坂本竜馬とも共に行動しており、お龍の回想録にも龍馬の友人として記述されている事から、龍馬と親しい間柄だったことがうかがえる。

この碑は「ぜんざい屋事件」にて横死した大利を称えるため、同事件に関与していた田中光顕が建てた。
ぜんざい屋事件とは、幕府が長州征伐のために軍を集結させていた大阪城を奪取しようとした志士達と、その計画を察知した新撰組との間で起こった斬り合いのことで、名前の由来は、斬り合いの起こった場所が、志士達の潜伏場所である「ぜんざい屋」だったことに由来している。
このぜんざい屋、正式な屋号を「石蔵屋」と言い、武者小路家の雑掌を自称する本田大内蔵が営んでいた。そして、このぜんざい屋では、田中光顕、片岡利和「【土佐の偉人�Q】片岡利和:新撰組と斬り合った!」、大橋慎三、池田応輔等の志士が出入りしており、ここを拠点に大阪城奪取計画の準備を進めていたのだ。だが、その情報が新選組に漏洩する。
1865年1月8日、情報を入手した新選組の大坂屯所長・谷万太郎は、配下の谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎の3人を率いて石蔵屋を襲撃した。しかし大利と本田以外の者は外出中であり、店番をしていた本田もすぐに逃げたため、新選組は2階にいた大利たった一人を4人がかりで襲撃した。武術に長じていた大利は1時間にもわたり応戦したが、さすがに4人相手では歯が立たず、力尽きて横死。享年24歳。

碑の裏には、大利が前日に詠んだと言う「ちりよりも かろき身なれど大君に こころばかりは けふ報ゆなり」という歌が刻まれている。
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