2011年09月

「マレーの虎」として有名な陸軍大将・山下奉文の邸宅跡碑が大豊町にある。

山下は1885年11月8日に山下佐吉の次男として、旧・香北町にあった「暁霞村」で生まれた。後に大豊町へ移り住む。山下家は父が医師で、兄は海軍軍医少将、兄の長男と次男(山下の養子になった)も軍医になるなど医師の家系であり、そのためか山下は他の司令官よりも部隊の衛生を厳しく指導していたそうだ。
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山下は海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校を経て、陸軍大学校を卒業。陸大は首席で卒業し、銀時計と恩賜の軍刀を下賜されている。後に欧州駐在し、帰国後は軍事調査部軍政調査会幹事、陸軍省軍務局軍事課長を務めるなどエリートコースを歩んでいた。
しかし、山下が過去に連隊長を務めていた歩兵第3連隊の部下が2・26事件を起こし、山下も同調者だと疑われる。このため山下は度々軍法会議にかけられ、結果、解任の議決が採られたが、同郷・同期で参謀次長になった沢田茂、梅津美治郎、阿南惟幾などが、陸軍大臣・川島義之に慰留を進言したため朝鮮の歩兵第40旅団長への左遷で済まされた。
太平洋戦争が開戦されると第25軍司令官に任命され、マレー作戦を指揮。「yes or no」というセリフで有名なシンガポールの無血占領という成果を上げ「マレーの虎」と評された。これだけの大戦果を上げれば普通なら中央に戻るか、上職に就くはずだが、山下を疎んでいる東條英機(開戦前に山下が「陸軍の機械化と航空化の整備を徹底的に行わなければ近代戦に勝てない」と発言したことをきっかけに東條に疎まれた)の指図で前線に放置された。そして敗戦濃厚となった1944年に第14方面軍司令官に任命され、フィリピン防衛戦の指揮をする事になる。

フィリピン防衛戦では、台湾沖航空戦「【土佐の偉人�N】杉本丑衛:悲運の航空司令官」の誤った戦果報告に基づいて立案されたレイテ決戦を大本営から強いられた。山下は台湾沖航空戦の戦果発表を誤報と考えレイテ決戦に反対したが、上部組織である南方軍の総司令官・寺内寿一が固持したためレイテ決戦へ参加することになった。だが、山下の予想通り台湾沖航空戦の戦果発表は誤報であったため、大量に投入したはずの兵も、米軍の圧倒的な兵力差にどんどん駆逐されてしまい、ついに山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれる。このため山下は自決しようと腹を切ろうとしたが、司令官が先に死んでは残された兵に責任が及ぶため、1945年9月3日、敢えて投降して山を降り捕虜となった。

投降時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯として軍事裁判にかけられ、シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ死刑判決を受けた。 死刑判決後、米陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は、判決を不服としてフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。しかし米最高裁は6対2の投票で請願を却下し、絞首刑に処すことが確定となった。この情報はフィリピン中に知れ渡ったため、山下の人望の厚さを知っている米軍は絞首刑妨害を防ぐために数個中隊で処刑場のあるロスパニオスを防備している。
1946年2月23日、3時27分、山下は絞首刑に処せられた。処刑はマッカーサーの私怨により、軍服・勲章その他の軍人の名誉を表装するいっさいのものを剥奪され、囚人服のままで行われた。処刑を見届けた森田正覚によれば、山下の態度は堂々たるもので、陛下の繁栄をつぶやき逢拝したのち、自ら絞首台から発ったという。山下の処刑執行の報を知った兵は「司令官である山下が恥を忍んで自ら投降してくれたからこそ、今、兵達は生き延びている」と感謝した。また、この報を翌々日に知った朝鮮・台湾人の兵達も、全員が整列して黙祷を捧げた。遺体は軍用毛布3枚で丁寧に巻かれ、約3メートル掘られた穴に埋葬された。
ちなみに戦後、アメリカ人ジャーナリストのフランク・リールが、山下を裁いた裁判を詳細に取材して「山下裁判」という著作をあらわし、軍事裁判における山下の罪は冤罪だとしている。


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土佐女子高校の前に、北会所並教授館跡の石碑がある。
北会所とは今でいえば役所の様な所である。教授館とは、その北会所に1732年に第8代藩主・山内豊敷が設けた会所講を起源とする藩校である。
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豊敷が会所講を設けた理由は2つある。1つは、藩政改革を担える人材を育成する為である。当時の土佐は、害虫による凶作、凶作による飢餓が発生し、これに対処するため幕府から1万5千両を借り入れていて、返済のための財政再建と、財政再建を行うための藩政改革を行う必要があった。このため、藩政改革を担える有能な人材を育成する必要が生じ、会所講を設けたのだ。もう1つは、豊敷が南学徒「南学発祥の地」であった事がある。豊敷は、谷秦山「谷秦山の邸宅跡と墓」に学んで南学を修めた山内規重を父に持っており、そんな父の影響を受けて三宅尚斎に学んだ後、谷垣守「谷垣守・真潮の邸宅跡」、宮地静軒、中村嘉種などに学んだ南学徒であった。このため、質実剛健を旨とする南学精神を、当時、不学遊興気味だった藩士に叩きこんで藩士の生活を正し、かつ質素にすることで、有能な人材の育成と財政再建をしようとしたのだ。
また豊敷は、諸大名に先立って皇居礼拝を行ったほど皇道・勤王精神を持っており、そんな彼の肝煎りで会所講は設けられた。そのため講義内容も朱子学と神学が必修で行われ、大義名分・皇道精神が藩士に教えられた。これが幕末期に、土佐勤王党の運動に対して理解を示す上士が多かった遠因なのかもしれない。講師には岡立哲、谷垣守、宮地静軒、中村嘉種の4人がおり、月10回会を開くのを原則とし、講師は藩士の勉学状況を報告する義務を負った。
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会所講は28年も続いたが、1759年にこれを拡大発展させた藩校・教授館が創設、翌年に開校された。
敷地面積1454坪、建坪230坪、総瓦葺の建物を設け、責任者である頭取には仕置役と大目付の2人が兼務し、その下に講師である教授役や句読役が配置された。講義は月6回、谷真潮などの教授役が輪番で指導し、その内容は朱子学・神学が教えられ、訓詁学や古学は意図的に教えられなかった。この後、歴代藩主も教授館での教育を重視し、特に1825年には頭取の上に総裁職を設け、東邸山内家「山内家の四分家の屋敷跡」を創設した山内豊道を就かせた(後には追手邸山内家2代目当主の山内豊栄が就いている)。
教授館での教育に力を入れた藩であったが、幕末になると西洋文化・技術、武術、軍事訓練も行う必要が生じたため、教授館に変わる藩校として1862年に文武館(後の致道館)「藩校・致道館の跡」が設けられた。結果、会所講に始り約130年続いた教授館の歴史は幕を閉じた。

ちなみに、教授館の隣りには追手邸山内家の屋敷「山内家の四分家の屋敷跡」があり、ここで山内容堂「山内容堂の像」が生まれた。


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田野町にある中芸高校には、その昔、安芸郡奉行所と田野学館が設けられていた。

この奉行所は、岩崎弥太郎が父の無罪を訴えるための落書をしたことで有名。
1855年頃、当時、江戸で遊学していた弥太郎のもとに「父が喧嘩の罪で投獄された」との知らせが入り、弥太郎は急いで高知に帰って父の免罪を奉行所に訴えた。だが、その訴えは通らず、腹を立てた弥太郎は、奉行所の門柱に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によりて決す」と落書きする。これを知った奉行所は、弥太郎を捕えて投獄し、のちに村から追放。村を追放された弥太郎は、現・高知市鴨田に移り住み(この頃に近藤長次郎「近藤長次郎の生誕地碑」に教えている)、吉田東洋の塾に入門する。
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そんなエピソードのある奉行所の中には、田野学館という教育施設が設けられていた。この学館では、夏は6時~10時まで、冬は9時~12時まで、漢学・修辞・弓術・砲術・槍術・剣術・柔術・練兵などの授業が行われており、毎月末には小テスト、春秋には試験もあって、春秋の試験の際には郡奉行が出席したと言われている。教師には、文武取立役や文武相手役であった清岡道之助・清岡治之助・細川是非之助がおり、剣術指南役には高知から出張して来ていた武市半平太が、砲術指南役では田所左右次がおり、生徒には中岡慎太郎、石田英吉、仙石貢などがいたそうだ。


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その昔、瀬戸の周辺は浦戸湾の海水が北から入って来ており、そのせいで低湿地帯であったそうだ。
この低湿地帯を、海水が入り込む場所東西約40mに渡って堤防を築くことで干拓し、約300石の田地をつくった人がいる。谷時中である。そして時中は、この田地と山林24町歩を高知城下の豪商・播磨屋宗徳に銀16貫目で売却し、息子・一斎の遊学資金とした。この時中については、墓が県指定史跡「谷時中の墓(清川神社)」、生誕地が町指定史跡「谷時中の生誕地」となっているため、ある程度知られているが、息子の一斎についてはあまり知られていないように思う。そこで今回は一斎について述べたいと思う。


↓ 恐らく時中が築いた堤防があったであろう場所。この奥に瀬戸という地域がある。

谷一斎は1625年に時中の息子として生まれた。名を松、通称を三介、字を宜貞や巳千、号を一斎といい、一斎懲窒子とも称している。南学「南学発祥の地」を幼少時に父・時中から学び、後に時中の弟子である野中兼山「野中兼山の邸宅跡」や小倉三省「」に学んだ。清廉で義侠心にとむ人物で、困窮した武士から助けを請われた際に、兼山から預かっていた刀を与えたなどの逸話が残っている。
後に京へ遊学するが、この遊学資金を上記の新田を売却して得ている。帰国後は兼山の斡旋で7人扶24石で藩に仕え、南学の普及に取り組み、南学の正統継承者と称されるようになった。だが、兼山の失脚にともない一斎も排斥されるようになると病気を理由に辞職して、瀬良一斎と改名し、南学復興を試みて京に出る。
京に出た数年後に江戸に移って私塾を開くと、江戸藩邸に滞在中の諸藩の大名達が教えを請うてきたが、父・時中がそうであったように、在野の者としてこれを全て辞退。しかし、再三の誘いを断り切れず、谷三介と改称して京都所司代・稲葉正往のお抱え儒者となり、渋川春海と改暦論争するなど活躍した。
晩年は在野の人となるが、一斎の名声は高く、諸大名からしばしば意見を求められている。一斎の名声の高さの証として次の逸話がある。ある日のこと、第3代土佐藩主・山内忠豊は、お抱え儒者として古義学者・緒方宋哲を雇ったことを岡山藩主・池田光政に話した。すると池田は「谷三介こそ大儒者である。それをさしおいて宋哲を雇うのは措置が誤っているのではないか」と忠告したと言う。三名君の一人である池田光政(あとの2人は徳川光圀、保科正之)が一斎のことを大儒者と認めているのである。
大儒者と名声高かった一斎であったが、彼の本望であった土佐での南学復興は彼の在命中に叶わず1695年に江戸で71歳で亡くなった。土佐での南学復興は谷秦山「谷秦山の邸宅跡と墓」の登場を待たなければならない。


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昨年、京都の石清水八幡宮で行われたRed Bull HOLY RIDE ⇒「高知城でRIDEだじぇ!!」ですが…









なんと今年の開催場所は!












愛媛県の石鎚神社だって!!!











詳細は未定だけど、開催日は11月12日か13日らしい。
見るだけでも行きたいわ。

悔しいのは高知で出来なかった事。
徳島にもチャリ関係やアニメ関係で後塵を拝してるし、本当に高知の行政終わってるわ。頑張ってるのは知ってるけど、センス無い…と言うか、時代遅れの人多いのよね。まんさいだって、なんで今更景山の兄貴と森久保の祥ちゃんやねん。





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