「マレーの虎」として有名な陸軍大将・山下奉文の邸宅跡碑が大豊町にある。
山下は1885年11月8日に山下佐吉の次男として、旧・香北町にあった「暁霞村」で生まれた。後に大豊町へ移り住む。山下家は父が医師で、兄は海軍軍医少将、兄の長男と次男(山下の養子になった)も軍医になるなど医師の家系であり、そのためか山下は他の司令官よりも部隊の衛生を厳しく指導していたそうだ。

山下は海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校を経て、陸軍大学校を卒業。陸大は首席で卒業し、銀時計と恩賜の軍刀を下賜されている。後に欧州駐在し、帰国後は軍事調査部軍政調査会幹事、陸軍省軍務局軍事課長を務めるなどエリートコースを歩んでいた。
しかし、山下が過去に連隊長を務めていた歩兵第3連隊の部下が2・26事件を起こし、山下も同調者だと疑われる。このため山下は度々軍法会議にかけられ、結果、解任の議決が採られたが、同郷・同期で参謀次長になった沢田茂、梅津美治郎、阿南惟幾などが、陸軍大臣・川島義之に慰留を進言したため朝鮮の歩兵第40旅団長への左遷で済まされた。
太平洋戦争が開戦されると第25軍司令官に任命され、マレー作戦を指揮。「yes or no」というセリフで有名なシンガポールの無血占領という成果を上げ「マレーの虎」と評された。これだけの大戦果を上げれば普通なら中央に戻るか、上職に就くはずだが、山下を疎んでいる東條英機(開戦前に山下が「陸軍の機械化と航空化の整備を徹底的に行わなければ近代戦に勝てない」と発言したことをきっかけに東條に疎まれた)の指図で前線に放置された。そして敗戦濃厚となった1944年に第14方面軍司令官に任命され、フィリピン防衛戦の指揮をする事になる。

フィリピン防衛戦では、台湾沖航空戦「【土佐の偉人�N】杉本丑衛:悲運の航空司令官」の誤った戦果報告に基づいて立案されたレイテ決戦を大本営から強いられた。山下は台湾沖航空戦の戦果発表を誤報と考えレイテ決戦に反対したが、上部組織である南方軍の総司令官・寺内寿一が固持したためレイテ決戦へ参加することになった。だが、山下の予想通り台湾沖航空戦の戦果発表は誤報であったため、大量に投入したはずの兵も、米軍の圧倒的な兵力差にどんどん駆逐されてしまい、ついに山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれる。このため山下は自決しようと腹を切ろうとしたが、司令官が先に死んでは残された兵に責任が及ぶため、1945年9月3日、敢えて投降して山を降り捕虜となった。

投降時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯として軍事裁判にかけられ、シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ死刑判決を受けた。 死刑判決後、米陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は、判決を不服としてフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。しかし米最高裁は6対2の投票で請願を却下し、絞首刑に処すことが確定となった。この情報はフィリピン中に知れ渡ったため、山下の人望の厚さを知っている米軍は絞首刑妨害を防ぐために数個中隊で処刑場のあるロスパニオスを防備している。
1946年2月23日、3時27分、山下は絞首刑に処せられた。処刑はマッカーサーの私怨により、軍服・勲章その他の軍人の名誉を表装するいっさいのものを剥奪され、囚人服のままで行われた。処刑を見届けた森田正覚によれば、山下の態度は堂々たるもので、陛下の繁栄をつぶやき逢拝したのち、自ら絞首台から発ったという。山下の処刑執行の報を知った兵は「司令官である山下が恥を忍んで自ら投降してくれたからこそ、今、兵達は生き延びている」と感謝した。また、この報を翌々日に知った朝鮮・台湾人の兵達も、全員が整列して黙祷を捧げた。遺体は軍用毛布3枚で丁寧に巻かれ、約3メートル掘られた穴に埋葬された。
ちなみに戦後、アメリカ人ジャーナリストのフランク・リールが、山下を裁いた裁判を詳細に取材して「山下裁判」という著作をあらわし、軍事裁判における山下の罪は冤罪だとしている。
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山下は1885年11月8日に山下佐吉の次男として、旧・香北町にあった「暁霞村」で生まれた。後に大豊町へ移り住む。山下家は父が医師で、兄は海軍軍医少将、兄の長男と次男(山下の養子になった)も軍医になるなど医師の家系であり、そのためか山下は他の司令官よりも部隊の衛生を厳しく指導していたそうだ。

山下は海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校を経て、陸軍大学校を卒業。陸大は首席で卒業し、銀時計と恩賜の軍刀を下賜されている。後に欧州駐在し、帰国後は軍事調査部軍政調査会幹事、陸軍省軍務局軍事課長を務めるなどエリートコースを歩んでいた。
しかし、山下が過去に連隊長を務めていた歩兵第3連隊の部下が2・26事件を起こし、山下も同調者だと疑われる。このため山下は度々軍法会議にかけられ、結果、解任の議決が採られたが、同郷・同期で参謀次長になった沢田茂、梅津美治郎、阿南惟幾などが、陸軍大臣・川島義之に慰留を進言したため朝鮮の歩兵第40旅団長への左遷で済まされた。
太平洋戦争が開戦されると第25軍司令官に任命され、マレー作戦を指揮。「yes or no」というセリフで有名なシンガポールの無血占領という成果を上げ「マレーの虎」と評された。これだけの大戦果を上げれば普通なら中央に戻るか、上職に就くはずだが、山下を疎んでいる東條英機(開戦前に山下が「陸軍の機械化と航空化の整備を徹底的に行わなければ近代戦に勝てない」と発言したことをきっかけに東條に疎まれた)の指図で前線に放置された。そして敗戦濃厚となった1944年に第14方面軍司令官に任命され、フィリピン防衛戦の指揮をする事になる。

フィリピン防衛戦では、台湾沖航空戦「【土佐の偉人�N】杉本丑衛:悲運の航空司令官」の誤った戦果報告に基づいて立案されたレイテ決戦を大本営から強いられた。山下は台湾沖航空戦の戦果発表を誤報と考えレイテ決戦に反対したが、上部組織である南方軍の総司令官・寺内寿一が固持したためレイテ決戦へ参加することになった。だが、山下の予想通り台湾沖航空戦の戦果発表は誤報であったため、大量に投入したはずの兵も、米軍の圧倒的な兵力差にどんどん駆逐されてしまい、ついに山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれる。このため山下は自決しようと腹を切ろうとしたが、司令官が先に死んでは残された兵に責任が及ぶため、1945年9月3日、敢えて投降して山を降り捕虜となった。

投降時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯として軍事裁判にかけられ、シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ死刑判決を受けた。 死刑判決後、米陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は、判決を不服としてフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。しかし米最高裁は6対2の投票で請願を却下し、絞首刑に処すことが確定となった。この情報はフィリピン中に知れ渡ったため、山下の人望の厚さを知っている米軍は絞首刑妨害を防ぐために数個中隊で処刑場のあるロスパニオスを防備している。
1946年2月23日、3時27分、山下は絞首刑に処せられた。処刑はマッカーサーの私怨により、軍服・勲章その他の軍人の名誉を表装するいっさいのものを剥奪され、囚人服のままで行われた。処刑を見届けた森田正覚によれば、山下の態度は堂々たるもので、陛下の繁栄をつぶやき逢拝したのち、自ら絞首台から発ったという。山下の処刑執行の報を知った兵は「司令官である山下が恥を忍んで自ら投降してくれたからこそ、今、兵達は生き延びている」と感謝した。また、この報を翌々日に知った朝鮮・台湾人の兵達も、全員が整列して黙祷を捧げた。遺体は軍用毛布3枚で丁寧に巻かれ、約3メートル掘られた穴に埋葬された。
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