2011年10月

佐川町の国道494号線沿いに、勤王の志士・片岡利和「【土佐の偉人�Q】片岡利和:新撰組と斬り合った!」の邸宅跡がある。
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片岡は、城下にある潮江村の郷士・永野源三郎の二男として生まれた。
後に、土佐藩家老兼佐川領主・深尾家の家臣である那須橘蔵のもとへ養子に入り、この地で暮らす。
1864年、田中光顕「田中光顕の邸宅跡」、大橋慎三、池田応輔、池大六と共に脱藩して長州に渡り、大阪城焼き打ち計画に参加。同計画を実行に移そうとするも新撰組にばれてしまい、いわゆる「ぜんざい屋事件」が発生して、同郷の志士・大利鼎吉「大利鼎吉の遭難地碑」を失うものの、奈良の十津川に逃げ延びた。十津川村では地元郷士の中井庄五郎(ちなみに中井の愛刀は南海太郎朝尊「南海太郎朝尊の工房跡」)や、既に京阪で活躍していた中岡慎太郎と知り合り、後に陸援隊に加盟。明治になると宮内侍従となり、天皇のよき相談相手になったほか、千島列島を探検した。


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佐川町に、江戸時代後期の名刀工・南海太郎朝尊の工房跡がある。

南海太郎朝尊は1805年生まれの刀鍛冶。姓は森岡、通称は友之助という。
山城国で伊賀守金道に、武蔵国で水心子正秀に学び、文政年間中に上京して、趣味で刀鍛冶をしており歌人としても有名な公卿・千種有功卿の鍛刀相手鍛冶を務めた。天保年間に入ると江戸の湯島天神のそばに移り作刀し、晩年は土佐に帰り1865年に亡くなっている。

南海太郎朝尊は、相州伝、備前伝、山城伝の鍛刀をしており、銘は「南海太郎朝尊」「ちょうそんつくる」「山城國西陣住朝尊」「一条堀川住南海太郎朝尊」など。復古刀の西の提唱者として有名である。また著書も「刀剣五行之論」など多数ある。弟子も多く育てており、その内の何人かは大和国・陸中国・岩代国で名刀工として活躍している。ちなみに、土佐から山城国や武蔵国に移住した理由として、左行秀「左行秀の墓」に藩の御用刀工役を獲られた事に立腹したからと言われている。

南海太郎朝尊を愛刀とした者は多く、有名な者として、九州視察の帰途に宿毛で購入した武市半平太、新選組副長助勤の安藤早太郎、片岡利和「【土佐の偉人�Q】片岡利和:新撰組と斬り合った!」と意気投合した剣の使い手・中井庄五郎、望月亀弥太(望月没後は千屋寅之助が遺品として所有)がいる。


日高村にある国道33号線沿いに、北添佶磨の記念碑がある。

北添佶磨は1833年に岩目地村庄屋・北添与五郎の五男として生まれた。幼名を源五郎、名を正佶という。
17歳で庄屋職をつぎ19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となるが、1861年に土佐勤王党に加盟して攘夷活動に取り組むと、燃え上がる攘夷の志を抑えきれなくなり脱藩を決意。有馬温泉への療養を名目に、能勢達太郎「能勢達太郎の生誕地碑」たちと共に脱藩し京へ上った。
京では、小松小太郎・安岡斧太郎・能勢達太郎らと共に、京にあふれている浪士を蝦夷地に移住させ北方警備のための屯田兵と化す計画を発案、実際に視察に赴いた。ちなみに、この計画には途中から坂本竜馬も仲間に加わっており、後に龍馬の蝦夷地開拓構想の基になったと言われている。
その後、神戸海軍操練所に属すが、同郷で同属の望月亀弥太らと攘夷活動に取り組み1864年に池田屋事件に遭遇。新撰組の追撃から逃れられないと覚悟した北添は自害して果てた。享年30歳。死後に従四位が贈られている。


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佐川町に、勤王の志士で、後に宮内大臣になった田中光顕の邸宅跡がある。
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田中光顕は1863年に井原応輔・片岡利和・橋本鉄猪・池大六と共に長州へ脱藩した勤王の志士。
長州では大坂城焼き打ち計画を策定するが、事前に新撰組にばれてしまい、いわゆる「ぜんざい屋事件」を発生させ、同郷の大利鼎吉「大利鼎吉の遭難地碑」を失った。
後に、大橋慎三の仲介で中岡慎太郎から薩長同盟「【三都物語2010:京都】薩長同盟の締結地」の構想を聞かされるとこの実現に奔走。薩摩藩が和解の使者として長州へ黒田清隆を派遣したときには池内蔵太らと共に同行し、薩長同盟の成立に貢献した。
近江屋事件の発生時には、現場にいち早く到着し、重傷の中岡から状況を聞きだしている。中岡の死後は、土佐藩白川屋敷に本部があった陸援隊「【三都物語2010:京都】陸援隊の本部跡」の副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦や戊辰戦争で活躍した。

維新後は新政府に出仕。伊藤博文・陸奥宗光・中島信行「【土佐の偉人�P】中島信行:海援隊の若手三羽ガラス」らと「国是綱目」を提出したり、岩倉使節団員として欧州を巡察した。また、西南戦争では征討軍会計部長となり、後に陸軍省会計局長に就任。この他に元老院議官、初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職も歴任しており、1898年には土方久元「土方久元の生家跡」の後任として宮内大臣に就任して、約11年間にわたり土方久元「【三都物語2010:京都】土方久元の下宿跡など…」、佐々木高行「【土佐の偉人�R】佐々木高行:明治維新の影の立役者」、河野敏鎌「【土佐の偉人�L】河野敏鎌:国のために上司を斬首」などと共に、天皇親政派の政治家として国難に対処した。



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田野町に、岡本寧浦の生家がある。
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岡本寧浦は、幕末の陽明学者。
実家が寺だったため当初は仏門を歩むが、甥に寺を譲って還俗し儒学を学んで、大塩平八郎や安積艮斎らと交流した。後に備後福山藩の藩儒となるが、さらに後に土佐藩主・山内豊資に召されて教授館「教授館跡碑」の下役となる。また、城下に私塾を開き、その門から岩崎弥太郎「安芸ポタ�@ (岩崎弥太郎 生家)」・岩崎馬之助・清岡道之助「清岡道之助の旧邸」・河田小龍「【三都物語2010:京都】河田小龍の墓」・間崎滄浪らを輩出した。死後に正五位が贈られている。
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ここ↓が、寧浦の生家である浄土真宗・乗光寺。
門は鉄筋コンクリート製で珍しいものだそうだ。
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ちなみに寧浦の妻は弥太郎の母の姉・時で、弥太郎は寧浦の義理の甥にあたるのだが、弥太郎は普段から風体の悪い寧浦を毛嫌いしていたそうだ。だが、全国の儒者が幕府のお抱え儒者と論争した際、寧浦は誰にも引けを取らない論説をし、それを聞いた弥太郎は寧浦を見直したという。


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