2012年01月

あああああ…

寒い!!!

走ってれば暖かくなるかなと思い走ってみたけど、寒い!
あまりの寒さにこぐ気になれず、追い風のなかを凍えながら10km/hで自由航行。夜須の坂を登ってると少し暖かくなったけど、餅屋の横のトンネル後の下りでまたやる気を無くしgdgdに。ローテンションのまま田野町まで行き、目的のとあるモノを探すが見つからず、ついに心が折れて帰る事にした。まったくもう、ついてないぜぃ。
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帰りはめっさ向い風。ざ、ざむいわい。
気合い入れて走れば暖かくなるんだろうけど、その気合いが出ないのよ。寒過ぎて。んで、風を避けて帰ろうと思い、路地を通って帰ってたら、マンホールと道路の隙間にある窪みにホイールがハマり、ガチン!っと嫌な音が…。見てみるとリムのシュー接地面とリムに縦横1cm程の白い傷があるではないかよ、おい。ブレーキ掛けるとガコッガコッと異音がするし、なんちゅーこっちゃ。これはリムを削れば治るのか?まったくもう、ついてないぜぃ。
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帰宅後、目的のとあるモノの在り処をネットで探してみた。
芸西村だった。
まったくもう、ついてないぜぃ…。




東洋町の甲浦に、土佐藩の国境を警備する東股番所跡碑がある。

この番所は、長宗我部元親が天正年間に設置した甲浦口番所を起源とする。
山内氏が入国すると1667年に建て替えられ、後に何度か火災により焼失するが都度再建され、1870年に岩佐番所などと共に廃止された。
番人は、長宗我部時代は坂本三郎右衛門と高橋彦兵衛が務め、後に甲浦庄屋の須賀五郎右衛門が兼任しており、山内時代に入ると和田家と小南家が務めた。ちなみに番所横に家があった小南家には、江戸へ剣術修業に赴く途中の坂本竜馬が立ち寄り、稽古をしたと言われている。また小南家は、明治を迎えると高知に移り「小南石材店」を開いた家である。
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東洋町の野根・中島が、南月渓の生誕地である。

南月渓は1822年5月5日に、この地の弘田平右衛門の五男として生まれた。
幼少時に父の命により村内の浄土宗の寺で僧籍に入り、長じて大休和尚のもとで禅学を学んで、後に藩の方針に従い谷氏の学問(つまり南学「南学発祥の地」)を学んだ。さらにはその後に伊予の星野氏のもとへ遊学し、約10年に渡って漢学・内外の教典・能・詩文を学んで、特に武技については好んで修行に励んだそうだ。
嘉永年間に田野・浄土寺の住職になると本堂で塾を開き大盛況。多くの人材を育てるが、このなかには野根山二十三士「野根山二十三士の殉節地」の捕縛隊に参加したり、江藤新平「江藤新平の遭厄地碑」の捕縛隊にも参加した細川是非之助もいた。後に赤岡・高知へ移住して教師となり、1882年6月26日に没して、井口町の永福寺に葬られた。
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ちなみにこの中島地区は、川谷薊山の生誕地でもある。

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とある日のこと、暇なのでなんとなく高知城へ。
もし高知城遺構を全て再現するなら、個人的に真っ先に再現してほしい箇所No.1の鉄門跡と、その周辺を見てきた。
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鉄門を通ると本丸に通ずる二ノ丸と三ノ丸に行けるが、今回は三ノ丸へ。
そこには当時、年中行事や儀式を行う大書院や裏書院、そして藩主の控えの間である御居間などからなる御殿が建てられていたそうだ。また三ノ丸の東北隅には、唐破風や廻縁高欄が付けられた天守閣と同形で、城内8つの櫓の中で最も特異な外観をしていたという二階建ての丑寅櫓もあったそうだ。


そう言えばこの三ノ丸で、第8代藩主であり、藩校・教授館「教授館跡碑」を創設した山内豊敷(父親は谷秦山「谷秦山の邸宅跡と墓」・垣守親子「谷垣守・真潮の邸宅跡」を重用した山内規重)が、1764年春に川谷薊山をここに召し、わざわざ対面して天文測器を見ながら日食予報の詳細を尋ね感賞したそうだ。
と言うのも、この前年に川谷薊山は、これまで無いとされていた日食を予報し見事当てたことで全国に名をはせており、豊敷はその詳細を尋ねるため呼んだのだ。
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※川谷薊山
川谷薊山は1706年に東洋町・野根の中島で奉行方留書を勤める川谷藤兵衛勝致(3人扶持7石)の家に生まれた。名を致真、通称を貞六と言い、薊山は号である。後に高知城下の薊野村に移り5人扶持15石となって藩に仕え、谷垣守のもとで天文暦学、神道、南学を学び、1738年に江戸に出て豊島氏に和算を学ぶ。帰藩すると土佐藩における初の算学塾を開き多くの門人に教え、その傍ら天文暦学も教えるようになると、自らも天体観測を行うようになる。
そんななかの1763年初頭、これまで無いと思われていた同年9月1日に日食があると予報。これに対して幕府天文方はそんなものは無いとしたが、当日は約5分半の日食が観測され薊山の説が証明された。当時、日食は年中行事や祈祷などに関わる重要なものだったので、薊山の評価は非常に高まり、名声は全国に広まった。
また、薊山はこの間、南海暦談・授時改旋暦書・起元演段・薊山集などを著し、蒔絵地球儀や蒔絵渾天儀を製作して藩主に献上。1769年10月7日に64歳で亡くなり、薊野に葬られた。蒔絵地球儀や蒔絵渾天儀は現在、土佐山内家宝物資料館に収蔵されている。
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次回見られる日食は、2012年5月21日とのこと。
時間がある方は三ノ丸で日食観測でもどうだろうか。

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東洋町・甲浦に超願寺跡がある。

超願寺は、浄土宗の法然が土佐国幡多郡に配流刑に処された際の道中に宿泊した草庵を起源とする。
法然は1207年4月某日にその草庵を訪れ数日間滞在し、甲浦の隣りにある野根の相間山上に十一面観音堂を建立し、また相間浜の岩に南無阿弥陀仏の六文字号を刻んだ。このため甲浦の地元民達は喜び、法然が宿泊したその草庵を後に超願寺として建立した。
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甲浦の人々は法然に会う事が出来たが、法然の訪問を待ちわびていた幡多郡の人々は会えずじまいになる。法然の罪が12月に減刑されたため、幡多郡へむかう途中に讃岐国へむかったからだ。法然は減刑されたので喜んだだろうが幡多郡の人々は大いに落胆したそうで、その話を聞いた法然は幡多郡の浄土宗系の寺に自身の法衣等を贈り慰めた(ちなみに、この法衣は現在、四万十市の歴史資料館に展示されている)。

また、この超願寺には1808年4月20日に全国測量のため訪れた伊能忠敬も宿泊している。
法然や伊能忠敬が宿泊するなど歴史的価値のある寺だったが、明治に発せられた神仏分離令にともない1868年3月に廃寺。現在は小さな堂と墓地のみがある。

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