2012年03月

西町に島村速雄「【土佐の偉人�D】島村速雄:日本海海戦の最大の功労者」の生誕地がある。
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島村は、土佐藩士・島村五平の次男としてこの地に生まれた。
はじめ海南学校で学び、後に海軍兵学校へ入校。同期には後の総理大臣・加藤友三郎や、同郷の吉松茂太郎「【土佐の偉人�B】吉松茂太郎:連合艦隊司令長官の最多歴任者」がおり、彼等とは生涯を通じての親交があった。
兵学校を卒業すると扶桑乗組からはじまり、常備艦隊参謀、連合艦隊参謀などを務め、そして日露戦争時には連合艦隊参謀長となり華々しい成果を残した(だが自分の功績を他人に譲る性格だったため、島村の功績はあまり知られていない…)。日露戦争後は、海軍兵学校長、海軍大学校長、第2艦隊司令長官等を経て、海軍軍令部長に就任。約6年務めたのち軍事参議官となるが、1923年1月8日に脳梗塞で死去。死後に元帥号が贈られた。葬儀委員長は吉松茂太郎が務めている。

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その昔、久万山の麓に毛利豊前守勝永「毛利勝永-wikipedia」の屋敷があった。
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毛利豊前守勝永は、毛利壱岐守吉成「高知城追手門と毛利壱岐守吉成」の長男。父が山内家の厚意で土佐に引き取られた際に共に赴き、この地に屋敷を与えられ住んでいた。しかし1614年に家里伊賀守が豊臣秀頼の密使として訪れ、豊臣方に加わり徳川方と戦うよう説得すると、息子・毛利勝家等とともに愛宕山南端の川から船に乗って土佐を脱し大阪城へ入城した。
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桜井町に、太平洋戦争開戦時の海軍軍令部総長・永野修身「永野修身-wikipedia」の生誕地碑がある。

永野修身と言えば、大尉時代、夜風に当たろうと甲板に出ると隣りにいた軍艦が突然爆発したので、いの一番に短艇を出して救助に着手出来た話や、兵学校卒業順次の話など、強運の持ち主という印象がある。また坂本竜馬に強い憧れを持っており「自分が強運なのは龍馬の生まれ変わりだから」と言ったとか言わなかったとかいう話も聞いた事がある。まあ永野が唯一、海軍3長官職を全て歴任したのを考えると、龍馬の生まれ変わりかどうかはともかく、超強運だったのは間違いないだろう。
ちなみに筆山に墓所(分墓だが)があるが、詳細はこっち「【番外編1】高知ポタリング日記�D」へ。


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旭町の近くに、坂本竜馬に砲術を教えた徳弘董斎の生誕地碑がある。

徳弘董斎は1807年に徳弘石門の長男として生まれた。名は益、益孝。通称は祥吉、孝蔵。別号に石埭がある。徳弘家は土佐藩で代々持筒役をつとめる家で、董斎の代には藩内の砲術五家の一つに数えられるようになっており、門下には坂本龍馬やその兄である坂本権平、武市半平太、岡田以蔵、門田為之助などがいた。
時の藩主・山内豊熈に高島秋帆の高弟・下曽根金三郎のもとで修行するよう命じられると、江戸に赴き、高島流西洋砲術を学んで免許皆伝を受けるが、土佐へ戻るとやがて砲術修行の傍らで広瀬台山に学んだ文人画の塾を開き転行。同門の画家・橋本小霞と並び称されるほどの画力だったと言う。砲術家はその様子等を絵に起こすので絵心があるのは当たり前だが…。1881年に75歳で没した。

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田野町に、野根山二十三士「野根山二十三士の殉節地」の副首領・清岡治之助の屋敷跡碑がある。


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