カテゴリ: 土佐の偉人

今回の土佐の偉人は、小畑 敏四郎(おばた としろう)さん。

太平洋戦争中に統制派の東条英機に監視されるなかで、秘密裏に終戦工作を担った一人です。また、作戦の鬼と言われたほど優秀な陸軍軍人で、ソ連研究の第一人者であり、陸軍軍人にしては珍しく支那との平和路線を主張した人でもあります。



小畑敏四郎は1885年2月19日、小畑孫次郎の四男として現・東京都千代田区に生まれた。
父の孫次郎(美稲)は元・土佐勤王党員で、父の弟である孫三郎も勤王党員であった(ちなみに二人とも勤王党弾圧の際に河野敏鎌「【土佐の偉人�L】河野敏鎌:国のために上司を斬首」達とともに牢に入れられている)。小畑の生まれは東京だが、周囲の人間は、家系が土佐出であることに加え、一見温和だが内面は強烈でいかにも土佐人の血を享けた性格である事から「いかにも土佐の人間」だと認識していたようだ。
小畑は学習院初等科に進んだのち、父の京都引越にともない京都府立第一中学校に入学。その後、大阪陸軍地方幼年学校を経て、陸軍中央幼年学校に入学。ここで永田鉄山と出会う。同校卒業後、近衛歩兵第1連隊に配属され、1904年に陸軍士官学校を卒業。再度、近衛歩兵第1連隊に配属される。その後、陸軍大学校に入学。参謀本部勤務。1915年の第1次大戦ではソ連のモスクワやキエフなどに観戦武官として派遣され、その時ソ連研究の第一人者であった荒木貞夫に師事して、彼に負けず劣らずのソ連研究の第一人者、そして作戦家となった。

�@作戦の鬼
1932年上海事変が起こった。事変の起こった上海は米英等の利権が重なる地であるため、事変が長期になれば米英等が軍を送り込み、ひいては極東植民地化の推進に繋がる。これを避けるため日本は一刻も早い事変終結をむかえる必要があり、陸軍大臣・荒木貞夫、参謀次長・真崎甚三郎はその作戦立案を小畑に任せる事にした。当時、小畑は大佐で陸軍大学校の教官を務めていたが、作戦立案を行う作戦課長の職は中佐クラスが務めるもので小畑にとっては降格になる。だが小畑はこれを快諾、作戦立案をし、僅か1ヶ月で停戦に持ち込んだ。
その約1ヶ月後、5.15事件が起こった。これは海軍青年将校が中心に起こした事件だったが、一部陸軍士官学校生徒も入っていた。だが陸軍側の参加者は予定ではもっと多くなるはずだったが、これを察知した小畑の要請で西田税が説得に走ったため数名に留まったのだ。しかし数名でも陸軍の参加者がいたため「残念なことをしてくれたなあ」と落胆したが、軍による政治改革を目指す永田と東条英機は嬉々とした様子だったそうだ。

�A陸軍の分裂と暴走
・バーデンバーデンの密約
1920年代、小畑は海外勤務していた。この間の1921年10月頃、陸士同期である永田鉄山、岡村寧次と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンのステファニーホテルにおいて、陸軍の薩長閥人事除去を目指す「バーデン・バーデンの密約」を結び、昭和改元直後「一夕会」を組織した。一夕会の基本理念は、反宇垣ということと「荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎」の3大将を盛り立てていく事だった。ところが1931年に起きた満州事変後の方針会議をきっかけに、小畑と永田の意見が分かれ、後の派閥対立へと繋がる。
・統制派と皇道派
小畑は「陸軍の実力は、兵器、装備の点で2流で、ソ連侵攻は不可能であり、防衛に徹する必要がある」よって「日本と支那は提携して平和を確立し、対ソ防衛に注力すべきだ」と主張するが、一方の永田は「支那を力で屈服させ対ソ防衛の橋頭保とすべし」と主張した。会議では小畑に賛成のものが多く、その方針で行く事になった。だが、この話が重臣・西園寺公望に伝えれれた時、その内容は「小畑が対ソ戦争を主張し、永田が対ソ防衛を主張した」となっていた。いったい何故、内容が変わったのだろうか。そもそもこの話を西園寺に伝えたのは、永田の友人(原田某)で、永田が話を歪曲して伝え、あたかも自分の案が採用されたかのように伝えたのだ。さらに、天皇・重臣達が不安視していた対ソ戦(対ソ戦となれば対米英戦争のきっかけになるので天皇・重臣達は恐れていた)を、小畑が主導しているというウソまでついて永田は自身のライバルである小畑を貶めたのだ。永田の政治力により、小畑は好戦派の人間という評判を立てられ、天皇・重臣に嫌悪されてしまった。これをきっかけに一夕会は2つの派閥に分裂。すなわち永田率いる統制派と、これに対する皇道派である。
・皇道派と青年将校
小畑は、勤王党員だった父親の影響を受けてか尊王思想を持っており「我が国の軍隊は天皇の統帥下にある。日本の軍隊は天皇の命令以外、私意によって動かすべきではない。私利私欲に基づく侵略に兵を用いることは絶対にしてはならぬ。軍隊は国家国民の安寧のためにある」というのが信念であった。また地位・名誉・金・欲望は皆無で、ひたすら皇国護持のために将兵指導に全身全霊を捧げ、後輩・将兵には目を配り、公私共によく面倒を見たため慕う者(特に青年将校)が極めて多かった。そのため青年将校にとって小畑は、保身ばかり考える他の上級将校と違い、尊敬できる存在であった。小畑も尊王に燃える青年将校を愛していた。だからこそ小畑は青年将校に対して暴発する事のないよう言い聞かせていた。だが、永田鉄山・辻正信の謀略をきっかけに陸軍に嫌気がさした一部青年将校が永田惨殺事件や2・26事件を起こし粛清されると、これらを見た小畑は「これからは永田の子分の天下になるだろう」と1936年に陸軍を依願退役。統制派の暴走が一層加速した。

�B終戦工作
退役した小畑は、趣味の農作業に精を出していた。その頃、近衛文麿が小畑を自宅に招くようになった。その頻度は週1・2回、首相就任後は月に2・3回で、小畑の意見を聞いていたらしい。小畑は「軍人は軍人勅論を恪遵し、政治に係わってはならない」という信条を持っていたが、陸軍の暴走を抑えるために政治に関わるようになった。「支那への拡大路線は辞めるように」そう近衛に忠告するが、軍の実権は統制派が握っていたため近衛は何も出来なかった。そのため近衛は、小畑を近衛内閣の陸軍大臣に据えて直接陸軍を抑えさせようと考えたが、周囲との軋轢を懸念して断念した。またこの頃、小畑は憲兵に見張られたり盗聴されるようになった。近衛との接触を不審がる統制派の手によってだろう。日独伊三国同盟締結の際に、当時文部大臣になっていた荒木に「閣議でもって賛成勢力をぶち壊してくれ」と頼んだ事も原因の一つかもしれない。
そして開戦後は、近衛の命を受けた細川護貞と出会い、天皇に真実の情報を伝えるため高松宮への意見や情報提供を行った。また殖田俊吉が近衛・吉田茂・小畑を含めた内閣をつくろうと動いた際には、陸軍大臣候補に小畑は挙がり、東条を政治から引き離して軍を粛清し、和平工作に移ることを計画した。この計画書の原案を殖田が書き、小畑が補足した文書を作成したのだが、この文書を殖田上奏文と言い、後の近衛上奏文の原型となった。軍人の政治介入を嫌う小畑だったが、他に今の陸軍を抑えられる陸軍将官が少なかったため仕方が無く参加した。しかし、近衛上奏文の存在が憲兵に漏れてしまい、小畑は憲兵の取り調べを受け、2週間の自宅軟禁を受ける事になる。幸い検挙される事はなかったが(これは小畑を尊敬していた陸軍大臣・ 阿南惟幾が拘留を承認しなかった事による)、2週間といえども小畑は憲兵の監視下に置かれたため、近所の農家からは「非国民だ、スパイだ」という噂が流れてしまい、野菜や卵が買えなくなってしまった。

�C戦後処理
終戦を迎えた。荒木貞夫は「小畑が軍の中枢におり頑張っていたら、支那事変も起こらず、従って今日の敗戦の屈辱もなめずに済んだであろう」と涙を流しながら述懐したそうだ。
そんな小畑は近衛の推薦で東久邇宮内閣での国務大臣に推挙された(ちなみに小畑を推挙する際、天皇が「小畑は対ソ戦論者だが、そんな者に任せて大丈夫か」と問うたそうだ。永田・原田のつくったウソを天皇は戦後まで信じていたのだ)。小畑は「陸軍次官に選ばれたのだろう」と思い軍服を着たが、迎えに来た者が国務大臣だというので背広に着替え直した。するとそこに、小畑が国務大臣になったというラジオニュースを聞いた、小畑を「非国民」と噂していた近所の者達が、大八車いっぱいに乗せた野菜を持って小畑家に訪れ、お祝いを述べた。これを聞いた小畑は「御国が負けたのに何が目出たいか!今は浮かれている場合ではない。そんなに余っている野菜があるなら村民に分けてやれ」といって受け取らなかったそうだ。
東久邇宮は政治の素人なので、実質的に国のかじ取りを切ったのは、今でいう内閣官房長官となった緒方竹虎、近衛、小畑の3人だった。特に小畑は徹底抗戦を叫ぶ青年将校の説得に、大岸頼好を派遣してこれにあたらせた。また1945年9月2日の太平洋戦争降伏文書調印式の日には、陸軍参謀総長の梅津美治郎が出席を渋って居るのを見て「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と叱り飛ばし、梅津に降伏調印式出席を納得させるなど、軍の後処理に尽力した。だが1947年1月10日、結核により死去。享年63歳。

有能ではあったが無欲で頑固だったがために、私利私欲を欲するエリート軍人にうとまれ、貶められた典型的な人だ。これに屈せず闘い終戦を導いた点で、もっと高く評価されていい人物だと思う。






今回の土佐の偉人は、金子直吉(かねこ なおきち)さん。

10歳で紙クズ拾いを始め「貧乏人、無学無能」と罵られながらも苦学して立身出世し、日本一の総合商社・鈴木商店の大番頭(経営者)になった人です。直吉さんは、地方問屋にすぎなかった鈴木商店を積極的な投機により三井・三菱財閥をしのぐ総合商社に育て、また同商店を基に神戸製鋼所・帝人・双日・IHIなどが誕生しました。これら功績から「財界のナポレオン」と称されており、また日本一の総合商社の経営者でありながら清貧を貫いた無欲の人としても有名です。さて、そんな直吉さんってどんな人なんでしょ。



直吉さんは1866年7月24日、高知県吾川郡名野川村(現・仁淀川町)の竹屋敷という集落に反物商の長男として生まれた。生家はもともと高知城下の富商だったが、数代前の当主の放蕩三昧を原因に家が傾き、父・甚七の代に移り住んでいる。甚七の店はそれなりに繁盛したが、明治維新を迎えると維新に伴う経済混乱で商売が立ち行かなくなり、直吉さんが5~6歳のころ一家で高知に舞い戻る。
高知では四畳半一間の貧乏長屋に一家で住み、生計は母の民が古着の行商をしてたてた。家計がこんな状態だったため直吉さんは当然学校へ通わせてもらえず、10歳頃から紙クズ拾いや砂糖店・乾物屋・質屋へ丁稚奉公に出る。だが同年代の学校に通う者や奉公先の者から始終「無学文盲、貧乏人」と侮蔑され直吉さんは自信喪失。それでも「こつこつ働いて小店を構え、家族と慎ましやかに暮らしたい」と願い奮起するも、周囲の者達が「無学無能のお前に何が出来る」と軽んじたため、何もうまく運ばなくなった。そして直吉さんは自暴自棄になり奉公先を辞め、無為の日々を過ごす。
そんなある日、転機が訪れる。母がとある質屋の奉公口を見つけてきたのだ。この奉公先の蔵には質屋なだけあって、質草の政治・経済・文学の専門書がたくさん積まれており、学校には行かなかったものの近所の神主から読み書きを習っていた直吉さんは、毎日、辞書を引きつつその専門書を読み漁った。ここで養った知識が商才を育み、後に花開くことになる。

◆鈴木商店を日本一の総合商社に育てる
1886年、20歳になった直吉さんは神戸の砂糖問屋・鈴木商店に入る。鈴木商店では鰹節などの投機をし莫大な利益を店にもたらし、あっとゆう間に番頭になった。そして台湾総督府民政長官の後藤新平と交渉し、台湾総督府が専売していた台湾産樟脳の販売権65%を獲得して、欧米に輸出し大きな利益を上げた。
台湾樟脳の輸出により事業規模が急速に拡大した鈴木商店は1902年に鈴木合名に法人成りする。その際に直吉さんも出資して所有経営者の一人となると「貿易の主導権を日本人の手に」という情熱の下いっそう商業に力を入れ、第1次大戦が勃発すると世界中で鉄をはじめとする様々な物資に投機的な買い付けを大規模に行い莫大な利益を得た。さらに「生産ほど尊いものはない」と様々な産業にも進出し、住友樟脳製造所を買収して福岡県に大里製糖所を設立。現在の神戸製鋼所となる小林製鋼所を買収したり、現在の帝人となるレーヨン事業を始めた。この他にも製糖・製粉・タバコ・ビール・保険・海運・造船事業に乗り出し、各地に工場を建て、海外に支店網を広げた。これら事業拡大に成功した鈴木商店は1919年に最盛期を迎え、売上高は16億円と三井財閥や三菱財閥を遥かに上回る額となる。これは当時の日本のGNPの約1割であり、国家予算(約15億円)を上回る額でもあった。また、当時のスエズ運河を通過する船の1割は鈴木商店所有といわれた。
これほど売上を上げる会社の経営者になった直吉さんだから、莫大な財産を築き豪華な暮らしをしていたと思うだろう。しかし直吉さんは私財を蓄える事なく借家で暮らし、遊興の巷で遊ぶこと無く、女性関係も無く、親しい政治家に献金する事も無かったそうだ(ちなみに当時の内務・大蔵大臣は同郷の濱口雄幸【浜口雄幸の生家までポタ�A】)。これに関して次の逸話がある。ある日のこと、直吉さんは知人から「三井・三菱の幹部は豪華な家に住み豪遊している。鈴木商店は三井・三菱を上回る大商社なのに、あんたは借家暮らしで質素な生活をしている。なぜだ?」と聞かれた。すると直吉さんは「鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺である。鈴木の宗旨を広めるため店に金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗人であり、死んだ後に私財をのこした和尚はくわせ者だ」と答えたという。欧米の金融機関の幹部に聞かせてやりたい話だ。
さて、事業拡大した鈴木商店だが、実はその拡大を可能たらしめた資金の出所は主に台湾銀行だった。そしてこの台湾銀行は、貸出総額のうち半分近くの3億5千万円を鈴木商店に貸出しており、これが後の火種となる。

◆鈴木商店の倒産
第1次大戦が終了すると日本経済は不況となりデフレになった。鈴木商店も不況の影響を受け売上が落ちるが、それに加え1918年から始まった米騒動の際に朝日新聞が「鈴木商店が米を買い占めている」という誤報をしたため「鈴木商店焼打ち事件」が発生し、信用が下がっていっそう売上が落ちた。
そこに関東大震災が発生する。震災による経済低迷を恐れた政府は震災手形割引損失補償令を公布し、震災を原因に決済できなくなった手形のうち震災前に銀行が割り引いたものについては日銀が補填する事にした。資金繰りに窮していた鈴木商店と台湾銀行は、この制度を利用して投機の失敗による決済不能手形も大量に補填してもらい損失の穴埋めを行う。だが、それを原因に予定よりも政府の補填額が多くなった事と、もともと中小銀行の経営状態が悪かった事を原因に社会全般に金融不安が生じ、そこに追い打ちをかけるように1927年3月14日の衆議院予算委員会において時の大蔵大臣・片岡直温「片岡直温の生誕地」が「(本当は潰れていないのに)某銀行が潰れた」と発言して、取り付け騒ぎ→金融恐慌が発生した。
資金調達のほとんどを台湾銀行からの借入に頼っていた鈴木商店は、この金融恐慌により致命傷を受ける。先にも述べたが、鈴木商店の主力銀行は台湾銀行で、同行は貸出総額のうち半分近くを同店に貸し出していた。台湾銀行にとっては貸出先の経営状態が悪化しており、さらに金融不安により銀行自体の先行きも危ない。そのため台湾銀行は鈴木商店に債務返済を迫ったのだ。しかし鈴木商店は資本金1億3000万円に対し借入金は10億円を超えており、借入返済を迫られても返せる原資が無い。そのため赤字工場を閉鎖・売却しようと直吉さん以外の役員が画策するも、直吉さんが「従業員は家族である!!」と言って反対し従業員の雇用を確保したため、ついに台湾銀行は鈴木商店への融資を打ち切った。
資金繰りが出来なくなった鈴木商店は4月5日に事業停止し、清算する事になった(ちなみに鈴木商店が倒産すると台湾銀行も休業し、これをきっかけに金融不安が再燃した。これに対処し収束させたのは時の財務大臣・高橋是清だが、数10年前に事業に失敗し路頭に迷っていた高橋を財界に引き戻したのは川田小一郎「【土佐の偉人�M】川田小一郎:日本銀行の法王」だった)。合名会社である鈴木商店の清算に伴い、出資者(=無限責任社員)である直吉さんは、台湾銀行をはじめとする債権者から資産提出を求められた。そして資産調査にあたった者達は直吉さんの資産を見て唖然とする。日本一の総合商社・鈴木商店のトップでありながら、一軒の家も一坪の土地もその他財産も全く持っていなかったからだ。このような、私財をつくらず国力向上の為に尽力した直吉さんを知った「大阪毎日新聞」は「商業貿易の結果が国是に背馳することなく、否、むしろ国是を背景として遙かにその後援をもって国利民福に合一する発展を策する商人だった」と直吉さんの事を、鈴木商店を倒産させた人物であるにも拘らず絶賛している。

◆清算後の鈴木商店と直吉さん
清算する事になった鈴木商店は、直吉さんの右腕として活躍した高畑誠一らが商社部門を引継ぎ日本商業(現・双日)として再出発した。直吉さんは主家である鈴木家の再興を図って1931年に太陽曹達(現・太陽鉱工)の取締役に就任し、同社の神戸の社宅に住んで、樺太や北海道での石炭開発やボルネオでのゴム事業などを手がけた。1944年2月27日に79歳で亡くなるが、清貧を貫いた大商人はやはり、亡くなった時わずかな現金しか持っていなかったそうだ。墓は神戸と高知に分祀され、正6位勲4等が贈られている。


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今回の土佐の偉人は、楠瀬熊治(くすのせ くまじ)さん。

日露戦争前後に活躍した火薬研究者であり、あの有名な下瀬火薬の特徴である無煙火薬の安定度試験法を開発した人です。また下瀬火薬製造所長や、初代・海軍火薬廠長に就任して高品質な火薬の大量生産体制を確立した人でもあり、以上の功績から下瀬雅允と共に「火薬界の二大功労者」と称されています。さて、そんな熊治さんってどんな人なんでしょ。



熊治さんは1865年5月15日、澤村辰吾の三男として高知に生まれた。後に楠瀬好静の養子となり楠瀬熊治となる。1887年に東京帝国大学・工科部火薬学科に入学して火薬研究に没頭し、また在学中の1888年に技術学生として海軍に入隊していっそう研究に勤しんだ。そして1891年に東大を卒業すると1ヵ月後にフランスへ留学し、ここでも火薬研究に没頭している。
1894年に帰国すると海軍省技師となって、呉や横須賀の海軍造兵廠で検査科主幹などを務めつつ、東大で嘱託講師も務めた。1903年には海軍所属でありながら陸軍火薬研究所の所員になっており、海軍所属の研究者が陸軍でも研究するよう要請されている事から、熊治さんの火薬研究者としての評価はかなり高かったと言えるだろう。
そして1909年4月29日、陸軍から要請されるほどの知見を持っていた熊治さんは海軍造兵廠・火薬部長に就任し、1912年には下瀬火薬製造所・所長に就任する。1919年には艦政本部に出仕し初代・海軍火薬廠長となって、各種砲弾に使用される火薬の大量生産に貢献した。1921年にこの功が認められ、海軍技官の最高位である海軍造兵中将に昇進する。
1924年2月25日に予備役となり、同時にこれまでの火薬研究ならびに発明改良に貢献した功によって従三位・勲一等を授与。1933年6月17日に69歳で亡くなり、多摩霊園に葬られた。



さて、熊治さんの経歴の中で注目したいのは、下瀬火薬製造所長時代と初代・海軍火薬廠長時代でしょう。それぞれ見ていきます。



�@下瀬火薬製造所長
1912年4月1日、熊治さんは海軍造兵廠・火薬部長を兼任しながら、下瀬火薬製造所・所長に就任した。
ちなみに下瀬火薬とは、熊治さんの1期先輩の海軍技師・下瀬雅允が開発した火薬であり、砲弾・魚雷・機雷・爆雷といった火器弾薬の炸薬に用いられ1904年に勃発した日露戦争の勝因となった火薬である。特に日本海海戦においてはバルチック艦隊を壊滅させた一因となっており、海軍はその戦訓から下瀬火薬を使った種々の砲弾を1914年までに大量生産する事を決定した。
だがここで問題が判明する。これまで火薬は海軍造兵廠・火薬部や下瀬火薬製造所がそれぞれ独自に製造していたのだが、両機関とも熟練作業者が手工的に製造していた為に、均一的な品質で大量生産しにくい事が判明したのだ。これに対処するため、火薬の開発・製造を管理する部署でもある海軍造兵廠火薬部の責任者・熊治さんは、自ら下瀬火薬製造所の所長に就任しこれに対処。海軍造兵廠・火薬部長を兼任しているため、両機関で行われる製造作業の詳細を把握・調整し、均一的な品質で火薬が生産されるよう尽力した。しかし大量生産については敷地面積の関係から十分に実現出来なかったため、海軍火薬廠を設立し対処する事になった。

�A初代・海軍火薬廠長
1919年4月、海軍が使用する火薬の研究・製造等については海軍が一元管理するという「海軍火薬廠令」が発令された。同令に基づき海軍は、海軍用の火薬を製造している業者を買収する事になり、その対象として日本爆発物製造株式会社・平塚製造所を買収する事にした。
海軍造兵廠火薬部長兼下瀬火薬製造所長として火薬の大量生産に取り組んでいた熊治さんは当然この買収業務に携わることになり、艦政本部に出仕し(火薬廠は艦政本部の指揮下にあると同令で定められたため)海軍代表として買収契約を締結。買収した平塚製造所を「海軍火薬廠」として発足し、熊治さんが初代・海軍火薬廠長に就任した。敷地面積は約38万坪もあり、この広大な敷地に各種製造部を設け、問題だった火薬の大量生産を可能にした。そして同廠は以後、海軍で使用する火薬の一大製造拠点としての役割を担った。


以上のように熊治さんは、火薬の品質向上・大量生産に尽力した。それは各種銃砲弾の大量生産をも可能にさせたので国防に大いに貢献したと言えるだろう。国防には艦船や銃器だけでなく、糧食や石油そして銃砲弾といった補完物資が必要不可欠であり、それらを十分に確保する事が重要になる。火薬の大量生産を実現し銃砲弾の大量生産を可能にした熊治さんは、国防の重要な一角を担い、その職責を十二分に果たしたと言えるだろう。


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今回の土佐の偉人は、大八木静雄(おおやぎ しずお)さん。

国防の要を担った伝説の兵器「93式酸素魚雷」の開発者です。
93式酸素魚雷とは、日本のみが開発・運用に成功した魚雷で、零戦・戦艦大和とともに「日本の3大兵器」の一つとして称賛された名兵器です。さて、そんな兵器を開発した静雄さんってどんな人なんでしょ?



静雄さんは1897年1月23日に高知市に生まれた。1915年頃に東京に移り住み、東大工学部に入学。在学中の1919年7月14日に造兵学生として海軍に入隊しいっそう勉学に励んだ。翌年に東大を卒業すると呉海軍工廠水雷部に配属され広島へ移住。配属先では当初雑用などをした後に魚雷実験部員となり、魚雷開発の実務に従事した。1926年には技術大尉・造兵監督官となり渡英して、魚雷メーカーのホワイトヘッド社にて調査・研究に従事。同時にイギリス海軍の技術動向の情報を収集して本国へ報告するなどしている。1928年に帰国すると、翌年から再開された酸素魚雷開発の中心メンバーとして活躍し、1933年に試作第1号を完成させ、1936年に実用可能な酸素魚雷の開発に成功。その魚雷は93式酸素魚雷と命名され「日本の3大兵器の一つ」「海軍が誇る伝家の宝刀」と称された。
さて、静雄さんの開発した93式酸素魚雷って何でしょうね?国防の要を担った位だし、あの戦艦大和や零戦と並び称された位だからスゴイ兵器なんだろうけど、いったい何がスゴイんでしょ?



�@93式酸素魚雷とは?
◆酸素魚雷とは
魚雷の駆動方法をご存じだろうか? 魚雷は、燃料に燃焼気体を加えて燃料を燃焼させ、スクリューを駆動させる。そして使用する燃焼気体に普通魚雷は蒸気・空気を使用するが、酸素魚雷は蒸気・空気よりも燃焼効率の高い酸素を使用する。このため酸素魚雷は、普通魚雷よりも約4倍の熱エネルギーを発して駆動し、その分だけ優れた速力・航行力を発揮する。この利点があるため各国は、競って酸素魚雷の開発に取り組んだ。
だが、燃料と燃焼気体の混合時に大爆発が起きるという事故が多発したため全ての国が開発を断念。日本も例外ではなかったが、艦艇数で劣る日本は、個々の艦艇の武装力を強化することで数の劣勢を補完する必要があったため開発を諦めきれず一旦中断の形に。開発が立ち往生となった。そんな時、ある技術者が出張先の英国から帰国してきた。静雄さんだ。
◆93式酸素魚雷の開発
酸素魚雷の開発を諦めきれない海軍艦政本部は、英国で魚雷を調査・研究して帰国したばかりの静雄さんをリーダーに据えて開発を再開させた。開発チームは全員泊まり込みで開発に着手し、開発の難所だった燃料と燃焼気体の混合も、静雄さん発案の順次混合方法により解決して1933年(皇紀2593年)に試作1号を完成させた。そして1936年に世界で初めて実用可能な酸素魚雷を完成させ、実戦部隊に正式配備された。この魚雷は試作完成が皇紀2593年だったので、年数の末尾2桁から「93式酸素魚雷」と命名された。
◆93式酸素魚雷の性能
この93式酸素魚雷は、当時の魚雷と比較すると桁違いの高性能を誇った。アメリカ軍のMk.15魚雷の性能は直径53cm・炸薬375kg・射程4500m/45ktだが、静雄さんが開発した93式酸素魚雷の性能は直径61cm・炸薬490kg・射程20000m/48kt(最大射程は40000m/36kt)と、約1.5倍の炸薬量と4倍以上の射程を実現し、さらに航跡がほとんど見えないため発見が困難という利点もあった。故に、この射程の長さと炸薬量により、敵戦艦の主砲攻撃圏外からアウトレンジ攻撃でき、かつ小艦艇でも戦艦並の攻撃力を持つことが可能となった。そしてこの高い性能に驚嘆した軍上層部は、93式酸素魚雷のことを「日本の3大兵器の一つ」「海軍が誇る伝家の宝刀」と称するようになった。
◆国防の要となった93式酸素魚雷
この93式酸素魚雷の攻撃力を重視した日本海軍は、93式酸素魚雷を使用してのアウトレンジ戦により敵艦隊を斬撃し、徐々に敵戦力を削いでいって、敵艦隊が弱ったところで戦艦同士の砲撃戦により勝利を収めるという戦略を定めた。つまり93式酸素魚雷は国防の要と位置付けられたのだ。しかし実際には、山本五十六の戦略転換により上記戦略は実施されなかったので、当初期待された93式酸素魚雷の活躍の機会は無くなった。だが、様々な海戦で使用され多大な戦果をあげている。



�A93式酸素魚雷の戦果
◆バリ島沖海戦
駆逐艦「大潮」の雷撃により、オランダ海軍駆逐艦「ピートハイン」を撃沈。
◆バタビヤ沖海戦
駆逐艦「春風」「旗風」「白雲」「叢雲」の雷撃により、オーストラリア海軍軽巡洋艦「パース」を撃沈。
◆スラバヤ沖海戦
重巡洋艦「羽黒」の雷撃により、オランダ駆逐艦「コルテノール」を撃沈。また巡洋艦3隻にも雷撃し損害を与えた。
◆第一次ソロモン海戦
重巡洋艦「鳥海」の雷撃によりオーストラリア海軍重巡洋艦「キャンベラ」を航行不能にし、アメリカ海軍重巡洋艦「シカゴ」「ヴィンセンス」を大破させた。さらに「ヴィンセンス」は軽巡洋艦「夕張」の雷撃により航行不能に陥った。
◆ルンガ沖夜戦
日本海軍の駆逐艦9隻の雷撃により、アメリカ海軍重巡洋艦「ノーザンプトン」を撃沈。同重巡洋艦「ペンサコラ」「ミネアポリス」「ニューオリンズ」を大破させた。
◆コロンバンガラ島沖海戦
軽巡洋艦「神通」の雷撃によりアメリカ海軍軽巡洋艦「リアンダー」を大破させた。また駆逐艦「三日月」「雪風」「浜風」「清波」「夕暮」の雷撃により、同駆逐艦「グイン」を撃沈。同軽巡洋艦「ホノルル」「セントルイス」を大破させた。
◆クラ湾夜戦
駆逐艦「涼風」「谷風」の雷撃によりアメリカ海軍軽巡洋艦「ヘレナ」を撃沈。
◆オルモック湾海戦
駆逐艦「竹」「榧」「樫」が雷撃により輸送船4隻を撃沈。さらに「竹」はアメリカ海軍の新型駆逐艦「クーパー」を撃沈させた。

このように多大な戦果をあげた93式酸素魚雷は、後には93式を改良した95式も開発され潜水艦用魚雷として配備されたり、残念ながら人間魚雷「回天」のベースとなった。また、信管の設定度合いにより不発・早爆するケースがあったものの、全体としては成果の方が大きかったと言えるだろう。
そんな酸素魚雷を開発した静雄さんは、成果を認められて1942年に海軍技術研究所に出仕、翌年には東大教授も兼任した。1944年5月には海軍技術少将に昇進し、1945年4月に艦政本部に出仕。同年9月、終戦に伴い予備役となっている。戦後は1953年から1973年まで三菱重工業の顧問を務め、1980年9月15日に亡くなった。

これは↓大和ミュージアムにある多分93式酸素魚雷。
けど先端に引掛けがあるから、もしかしたら91式航空魚雷かもしれない。
95式かも…。覚えてない。スンマセン。

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今回の土佐の偉人は、大山豊次郎(おおやま とよじろう)さん。

家族のように大事にしていた部下達を守るため、自身の保身を省みず上層部に意見し、部下の命を救った人情味あふれる元潜水艦乗りの艦長です。さて、そんな豊次郎さんってどんな人なんでしょ?



豊次郎さんは1897年に高知県に生まれた。海南中学校を卒業すると海軍に入り、1919年10月9日に海軍兵学校を47期で卒業する。
兵学校卒業後は潜水艦畑を歩み、1933年11月15日には伊123号潜水艦の艦長になる。その後も1936年11月15日から伊6号潜水艦の艦長、1940年9月30日からは伊15号潜水艦の艦長、1941年2月13日からは伊9号潜水艦の艦長となり、1943年1月5日からは一介の潜水艦長から第30潜水隊司令となった。第30潜水隊司令となった豊次郎さんは、南西方面艦隊の指揮下で伊165号潜水艦と伊166号潜水艦を指揮し、ペナンを拠点にインド洋の通商破壊業務に従事している。
1944年2月5日には潜水母艦・迅鯨の艦長となり、数度の輸送作戦に従事。8月14日には、7月7日に緊急閣議決定された南西諸島の非戦闘員等10万人の集団疎開の先発隊として131人の輸送を実施、無事に鹿児島へ疎開させた(ちなみに対馬丸事件はこの直後に起こった…)。
だが9月19日に行われた輸送作戦で佐世保から那覇へ向かう途中、米潜水艦の雷撃を受け航行不能に陥る。航行不能に陥った迅鯨は沖縄本島まで曳航され修理をするものの、10月10日に米第38任務部隊所属の艦載機による空襲を受け沈没した。沈没直前、豊次郎さんは総員退艦命令を出し、自身は艦と運命を共にするつもりだったが「艦長も脱出を!」と部下に促され脱出、救助艇に救われている。
救助艇に救われた豊次郎さん達は沖縄本島にたどり着き、上層部と一悶着あったあと1ケ月後に横須賀に帰還。その後1945年8月15日から9月2日まで第15潜水隊司令となり、同隊の解隊作業に従事したようだ(ちなみに同隊の前司令は同じ高知出身の揚田清猪大佐だった)。以後は予備役に編入され、生まれ故郷の高知に帰郷。1989年に92歳で亡くなっている。




豊次郎さんの経歴の中で注目したいのは潜水母艦・迅鯨の艦長時代、そのなかでも沈没後の事だ。この時に豊次郎さんは軍から「沖縄で地上戦に参加しろ」という命令を受けたのだが、横須賀への帰還を意見具申し実現させ、生き残った部下達を沖縄戦へ参加させずに救っている。

◆迅鯨沈没
1944年10月10日、迅鯨は9月19日に受けた雷撃の損害を修理するため、沖縄県国頭郡本部町沿岸の瀬底水道に停泊していた。だがこの日、伊江島飛行場の爆撃に向かっていた米第38任務部隊所属の艦載機から約30分間の空襲を受ける。
機銃掃射と爆撃を受けた迅鯨は火災を発生させ、約400人の乗組員のうち航海長以下135名が戦死。豊次郎さんも機銃掃射により足に負傷し、さらに悪いことに首に断片が刺さって上半身が血で染められるほどの重傷を負った。豊次郎さんは重傷の中「総員退艦」命令を出し、自身は艦と運命を共にする覚悟を決める。だが周囲にいた部下たちが「艦長も脱出を!」と強く説得した為やむなく救助船に移乗、一命を取り留めた。
だが、元潜水艦乗りである豊次郎さんの心中は穏やかではなかっただろう。潜水艦乗りにとって乗員は「家族そのもの」だ。その家族を多数失ってしまったのに自分は生き延びてしまい、かつ艦と運命を共にして責任をとる事も叶わなかった。豊次郎さんは「家族である部下を多数死なしてしまったのに、自分が生きているなんて」と無念で堪らなかっただろう。実際、救助艇に運ばれる豊次郎さんの様子を見たある兵は「あの時の艦長の悲壮な姿が忘れられない」と戦後述べている。

◆名誉の戦死か、意義ある帰還か
迅鯨沈没後に豊次郎さんたち生存者は、負傷者手当等のため一旦沖縄に退避した。するとそこに、海軍沖縄方面根拠地隊司令から「迅鯨の生存者は全員、沖縄に残留せよ」という指令が入る。
指令を受けた豊次郎さんは「せっかく自分は生き延びたのだから、今生きている乗員の為に尽くそう。そうすれば死んでいった乗員も報われるだろう」と思い、生き残った乗員を集め「諸君たちの意見はどうか」と尋ねた。よくいる司令官や部隊長などは「お国の為に玉砕しろ」と無理強いしそうだが、「乗員はみな家族」そして何より「今生きている乗員のために尽くす」と決めた豊次郎さんは皆の意見を優先する事にしたのだ。
豊次郎さんから意見を求められた皆は「残念ながら、我々がいても何の役にも立たないでしょう」それなら「いったん内地に戻り、立て直しましょう」と答えたので、それを聞いた豊次郎さんは一言「横須賀鎮守府に要請する」※と答えた。サイレントネイビー(国防の為なら何も言わずに任務を果たすという意味)である事が重視された海軍において、一旦下った任務に意見具申し、しかも沖縄が激戦地になる事が予想されるにも関わらずそこから逃走するかのような行為は、内地に帰れば世間から「戦から逃げた卑怯者」として叩かれる事は誰でも予想出来た。
それにも拘らず豊次郎さんは意見具申した。「今生きている乗員の為に」と。その甲斐あって意見具申から1ヶ月後、鎮守府から「横須賀に帰隊せよ」との指令が出て、迅鯨乗員は後の沖縄戦へ参加することなく帰還できた。当時の部下は戦後「今日まで生き永らえたのは艦長のおかげ。あの時の艦長の判断がなければ、我々は沖縄で全滅していた」と言っている。
※当時、迅鯨は呉鎮守府に所属していたので「横須賀鎮守府に要請する」という豊次郎さんの言は証言者の記憶違いだと思う。

◆戦後も部下の死を悔やむ
戦後、豊次郎さんは迅鯨の生存者でつくった「迅鯨会」の会長を務め、迅鯨の戦死者の鎮魂の為に、引き揚げられた迅鯨の菊花紋章に金箔を貼りなおして靖国神社に奉納した。
そして1985年に迅鯨会が靖国神社で行った慰霊祭に、豊次郎さんは米寿を迎えて参加。当時の乗員たちに会った豊次郎さんは苦しげな表情を浮かべ「ご遺族の方々に何と言っておわびを申し上げたらよいか」と言った。それを聞いた元乗員は「そんなに我々乗員を気にされていたのか」と感動のあまり絶句したそうだ。慰霊祭に参加するまでの40年間、豊次郎さんは、死んでいった乗員、残されたその親族、そして沖縄戦で亡くなった人々に対して「自分だけ生き残り、申し訳ない」という気持ちでいっぱいの懺悔の毎日だったのだろう。そして恐らく慰霊祭4年後に亡くなるまでの間もそうだったのではないだろうか。



そんな豊次郎さんについて元乗員は「艦長は、乗組員の絶大な信頼を集めていた」と述べている。それは豊次郎さんが、自身の保身を省みず部下・乗員のために尽力し、数十年たった後にも乗員たちを気にかけるような人だったからこそ得られた信頼だろう。
今の世に、豊次郎さんほど部下を思う上司が果しているだろうか。そして部下から絶大な信頼を集められる人情味ある上司がどれだけいるだろうか。表向きは良いように繕い、自己の保身のみを第一に考える輩が跋扈するこの世の中に、豊次郎さんのような人を求めてしまう。



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